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父は文学を好み、母は芸事を好んだ
別荘地ならではの思い出として、避暑にやってくる文化人や有名人とのお付き合いもありました。道を隔てて真向かいには来栖(くるす)三郎大使の別荘がありました。来栖大使というのは、昭和15年(1940)、駐ドイツ特命全権大使としてベルリンでの日独伊三国同盟に調印した方として有名ですね。
当時、来栖大使は夏の間だけのご滞在でしたが、奥様と養女の方がその別荘に住んでいらしていて、仲良くしていたんです。とうもろこし、小麦粉、砂糖が配給だった時代に、父のお見舞いに真っ白い食パンや立派な鮭をいただいたこともあります。僕は毎年のようにクリスマスにお呼ばれしていました。立派な洋館でした。僕の母は来栖大使の広い敷地の一部を畑として借りていたのですが、畑仕事をしている時に、奥様だかが失くした貴重な宝石を見つけて感謝されたこともありました。
父にも避暑地ならではの交友がありました。これは後から知ったのですが、父は文学が好きで、本人が書いたかどうかはわかりませんが、小説や詩の同人雑誌のメンバーだったようです。家には、戦中戦後の何もない時代に、「憲政の神様」、「議会政治の父」として知られる尾崎咢堂(がくどう/行雄)の著作や、戦前から大人気だった田山花袋(かたい)の『のらくろ漫画全集』、同人雑誌の束などがたくさんあったのを覚えています。北原白秋とか有島武郎、若山牧水などの本もありました。
母や、軽井沢に疎開してきていた伯母たちが話していたところによると、尾崎咢堂にはかわいがられていたようです。咢堂が軽井沢に滞在していた時、父はよく話し相手になっていたようなんですね。家には咢堂直筆の詩を記した額などがありました。
また父は歌碑などの拓本を集めており、家には出征先の中国各地で集めた拓本がたくさんありました。僕が特に覚えているのは、小諸にあった島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の歌碑の拓本です。母がよくその歌を口ずさんでいたこともあり、島崎藤村は僕にとって特別な作家となりました。
ちょっと後の話になりますが、学校の先生が小学校4年生の時に藤村の『夜明け前』、5年生の時に『破戒』を呼んでくれましてね。今から思うと子供に読むような内容ではないと思いますが、藤村の名前を聞いた時、「あの拓本の藤村だ!」と思いました。僕は子供のころからよく本を読んでいましたが、その原点は父の蔵書や拓本にあったと思います。
与謝野鉄幹・晶子夫妻や詩人の西城八十、小説家の川口松太郎、その夫人で女優の三益愛子夫妻とのお付き合いもあったようです。母は、後に俳優になった長男の川口浩をおんぶした三益愛子とよく話をしていたそうですよ。
こうして子供時分を振り返ると、僕は父の文学趣味、母の長唄や祖父の義太夫といった母方の芸事好み、そして軽井沢の別荘文化の中で育ったことがわかります。その後、僕は映画や音楽に夢中になり、最終的には音楽を一生の仕事とするわけですが、その原点には10年に満たない軽井沢での子供時代があると思っています。


昭和24年、小学校3年生の時に東京・浅草へ
先ほども言いましたが、父が昭和24年(1949)5月に亡くなった後、その秋に母の次姉を頼って東京に出てきました。母にしてみれば、父が亡くなったので、軽井沢にとどまる必要もなくなったし、仕事を見つけるにも東京の方が見つけやすいと思ったのでしょうね。僕は小学校3年生でした。

伯母の家は浅草の今戸(旧吉野町)にありました。聖天様(待乳山聖天/まつちやましょうでん)の近く、吉原の入り口にほど近い場所ですね。待乳山聖天は、正式には本龍(ほんりゅう)院といい、浅草寺の支院のひとつです。
伯母の家は手広く事業を営んでいまして、伯父は区会議員や教育委員長なども務めていました。
軽井沢から上野駅に着いたら、駅から地下鉄へ向かう通路に罹災した人たちがたくさんいたことを覚えています。傷痍(しょうい)軍人もいましたし、隅田公園にはバラックが建ち並んでいました。
僕が通うことになった台東区立富士小学校は、3階建の校舎の3階部分に家をなくした被災者が住んでいました。終戦から丸4年経っていましたが、東京はまだそんな具合でした。ただ、授業は通常通りで、生徒を午前と午後に分けて教える二部式の授業はもう行われていませんでした。
浅草の伯父伯母には、今思い返しても感謝してもしきれません。もともと伯母の家には子供が5人いて、伯父の方の親戚も住んでいました。進学や就職で上京している親戚を住まわせていたわけです。さらには、伯父の会社で働く職人さんが10人ほどいて、別棟に住んでいましたが、しょっちゅう出入りしていました。
そして僕たちが来る前には、ご主人を空襲で亡くした母の3番目の姉が、3人の子供を連れて身を寄せていました。猿若美人の伯母です。そこへ母と僕と弟が加わったでしょう(兄はこの時はまだ東久留米の病院です)、もう合宿所のような感じになっていました。
大豪邸じゃないんですよ。戦後の物資不足の頃で、材木もないから建て増しも簡単にはできない。正規のルートでは木材が手に入らなかったため、軽井沢の別荘を解体して、その木材を利用してちょっと建て増ししたこともあります。それでも十数人が暮らすにはいかせん狭い。浅草の伯母一家はよく僕たちを受け入れてくれたものだと思います。
なのに、僕たち家族は半年後に軽井沢に一度戻っているんですよね。僕が浅草での生活に適応できなかったんです。静かな軽井沢から、焼け跡の残る喧噪に満ちた大都会に突然きたものですから、なじめなかったんです。上京したのが小学校3年の秋でしたが、4年の1学期には前に住んでいた別荘に戻りました。
軽井沢では伯母から仕送りをもらったり、和裁のできる母が注文をもらって着物を仕立てたりして、なんとか細々と暮らしていました。そういえば、この時期、僕は日本初の総天然色映画として知られる『カルメン故郷に帰る』にエキストラ出演したんですよ。ほんのワン・シーンで、顔も出ていないんですけど、高峰秀子、佐野周二、笠智衆なんかの名前はこの時に覚えました。

再び浅草に戻ったのは、小学校5年の秋です。母も必死に働いたんですけど、どうしようもなくなったんですね。
しかし、この時は大丈夫でした。ちゃんと順応できたというか、順応しないといけないという覚悟があったというか。やはり食べるものにも苦労するという軽井沢での現実が子供心にも辛かったんだと思います。母は滅多に弱音を吐かない人でしたが、一度だけ「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」って、真っ暗に近い部屋の中でちゃぶ台に向かってつぶやいたことがありました。その言葉を聞いた時、「母ちゃん、一緒に死のうか」と言ったのを覚えています。
もちろん実際に死ぬつもりだったわけではないのですが、それを口にしたことで僕の中でなにかが吹っ切れたのかもしれません。決して泣き言を言わなかった母が、言葉として愚痴をこぼしたことが僕の琴線に触れたのでしょうね。あの一夜を過ごした時に、僕の覚悟が決まったんだと思います、東京で頑張るしかない、と。
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取材・文/岡田尚子
(次回更新:11月16日予定)