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明治天皇と聞いて思い浮かぶのは、どのようなお姿であろうか。軍服を着用し、髭をたくわえた威厳ある顔付きの
肖像画を思い出すい人が多いのではないだろうか。
そしてそれはそのまま明治時代のイメージになっているのではないだろうか。
しかし、あの肖像画は明治天皇の実像を写したものではない。
近代国家日本を象徴するイメージはどのようにして生まれたのか。
「明治天皇像」に刻まれた、近代化への道程を解き明かす。
(21号より)
御真影(ごしんえい)とは?
御真影とは、明治21年(1888)以降、側近である政治家や高級官僚、軍関係者、さらに地方官庁や学校に下付された天皇・皇后の御肖像写真のことで、正式には「御写真」(おしゃしん)と呼ぶ。特によく知られているのは軍服姿の明治天皇のものだろう。しかし、その御真影は実はお雇い外国人の描いた「絵」をカメラで複写した「肖像写真」であったことをご存じだろうか。

明治天皇と写真
明治天皇は明治4年(1871)、横須賀造船所をお出ましになった際、臣下や造船所長らの外国人ら合計20名とともに記念写真を撮影された。
翌5年、欧米を巡察する岩倉具視(ともみ)使節団の求めに応じ、束帯(そくたい)姿と直衣(のうし)姿の2種類の写真をお撮りになった。これは国家間での元首の写真交換という儀礼とは関係なく、使節団が象徴として保持し、掲揚するためだった。この2枚は岩倉使節団に下付されただけではなく、すべての在外公館に掲げることになった。
さらに同6年には、断髪し、新しく制定された西欧風の軍装をお召しになった姿で撮影された。明治7年以降、この洋装の写真をもとに少なくとも5人の画家が御肖像画を描いた。
ただこの写真は椅子の背にもたれた姿で、元首の肖像に求められる姿(背筋を伸ばし、胸を張った威厳のあるポーズ)とは違った。そこで儀礼として外国元首と交換する写真のため、ポーズを変えた御肖像画も制作された。しかし明治天皇は写真撮影が嫌いだったため、明治6年以降、公式の肖像写真は撮られなくなってしまった。
御真影が作られたプロセス
明治6年以降、肖像写真のないまま、明治天皇は年を取っていった。しかし写真と実際の姿の差があまりに大きくなると、他国へ肖像写真を贈呈するのに都合が悪い。しかし明治天皇は写真撮影を許可しなかった。そこで苦肉の策として、明治21年、当時の宮内大臣は大蔵省印刷局のお雇い外国人だったエドアルド・キヨッソーネに、明治天皇の写生をひそかに依頼することになった。
キヨッソーネはコンテ画や銅版画で写真以上の理想化されたリアルな肖像画を描くプロフェッショナルだった。
キヨッソーネはお出まし先での明治天皇の姿を物陰からスケッチ。宮内省から借りた明治天皇の正装用衣装を自分で身に着け、写真を撮影し、それらをもとに御肖像画を描いた。さらにこの絵を丸木利陽(りよう)がカメラで複写。これがよく知られている明治天皇の「御真影」である。
明治天皇は何も知らされていなかったが、宮内大臣がその複写写真をおそるおそる差し出すと、明治天皇は何も言わず、贈呈用の親署をなさった。

日本的な肖像の伝統
現在、写真といえばフォトグラフを指すが、実は「写真」とは昔から中国や日本にある絵画用語で、「真を写す」と書くことから、見たままではなく人物の内面を描くという意味が強かった。一方で見たままに描くことは「形似」(けいじ)と言い、外面的な形だけを似せた絵としてレベルが低いものと考えられていた。
つまり、当時、キヨッソーネが描いた明治天皇像は、言葉本来の意味に従えば、「写真」と呼んでしかるべきものであった。また、「影」も本来は肖像を指すため、キヨッソーネの「写真」から作られた「御真影」とは、内面を表現した肖像画ということになる。
このようにして考えてみると、明治天皇の「御真影」は、当時の日本が望んだ理想の元首の姿であり、その姿には当時の日本という国の内面が表現されていると言えるのではないだろうか。きっかけは明治天皇の写真嫌いであったとしても、明治という時代に、ヨーロッパ的な肖像の伝統と、日本的な肖像の伝統がぶつかり、さらにフォトグラフィーという新しいテクノロジーを用いて生まれた「御真影」は、ダイナミックな歴史の結節点に生まれたものとして読み解くこともできるのである。
*『皇室』誌では第16号(平成14年秋号)より「皇室ゆかりの日本美術探訪」と題した連載を掲載。ナビゲーターに明治学院大学教授・山下裕二さん、聞き手に美術評論家・ライターの橋本麻里さんを迎え、毎号、皇室と美術をめぐるさまざまなテーマについてQ&A形式で記事を掲載しました。この御真影の記事は、その連載の第6回です。
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