東日本大震災の発生から丸4年。これまで3月11日は必ず被災地にいたのだが、今年は訳あって新潟市にいた。それで、初めて3・11をテレビで視た。といっても仕事中であり、ちらっと見る程度であったが、その喧噪ぶりに驚いた。
メディアでは、「復興」へ進む側面ばかりが取り上げられている。もちろん、「復興」から取りこぼされている側面も取り上げられているのだが、それは復興のアンチテーゼであり、「前へ進むべきだ。しかし、進めない側面もある」という視点が垣間見えてしまう。
だがそろそろ、復興できない現実を現実として、感情抜きに直視しなければ、コミュニティの存続が危うい地域もあるのではないか。
たとえば、福島県の原発被災地ではいまだに「故郷」への帰還の道筋が見えない。除染やインフラ整備は、復興の「前座」に過ぎない。
宮城や岩手でも、震災前から過疎が問題になっていた地域は少なくない。復興事業を遂行し、理論上もしくは政治の都合上「人が住める」と発表されても、人が戻らなければ、そこにコミュニティは再建されない。誰が復興事業「後」まで世話をしてくれるのだろう?
そして、そこに神社が取り残されたらどうなるのだろうか。氏子のいない氏神様はどこへゆくのだろうか。以前住んでいた場所に戻れない現実を直視すれば、同一自治体内(もしくは他の自治体への)集団移転によるコミュニティの再編も具体化しうる。また、集団移転が難しいなら、「故郷」とのつながりをどう築けば良いかという点についても、より現実的な対応を考えることができると思われる。たとえば、盆や正月での「帰省」の奨励と、「帰省センター」としての神社の機能強化などである。夢のような理想論を掲げるあまり、域外へ避難し、そこでの生活をすでに4年も送っている人々の「現在の生活」と「帰還」との乖離を広げれば、 「帰還」は「移住」となりかねない。
■廃村を回避するために廃村に学ぶ
ちなみに、私は被災神社の取材だけが「被災神社のレポート」になるとは思わない。そして、過去の事例もまた、取材対象になりうると考える。
たとえば、足尾の廃村群。足尾鉱毒事件の陰にあって、複数の村が地図から消えたことをご存知だろうか。栃木県には旧「松木村」など、いくつかの廃村がある。
明治17年、栃木県足尾町(現・日光市)に足尾精錬所が建設され、近代的な銅生産が始まった。しかし、精錬所からの排ガスには亜硫酸が含まれ、一帯の草木を枯らした。
煙害に苦しんだのが、煙の流れの方向にあった松木村などだ。被害は深刻。明治21年には松木村の主要産業であった養蚕は、蚕の餌である桑が枯れたためにすべて廃業。畑の作物も枯れた。まさに死の村になった。山火事も起こり、明治35(1902)年もしくは翌年、ある一戸を残して全村が足尾銅山側に土地を売却し、住民は村を去った。明治25年には40戸=270人が住んでいた「故郷」は、消えた。
私は平成26年9月15日、松木村跡を歩いた。足尾の銅【あかがね】親水公園から徒歩で小1時間である。道は未舗装の林道で車も通れるが、一般車両は進入禁止。周囲の山々はいまだに禿げ山である。
また、全山が黒い砂に覆われた山々も見える。これは、精錬所が精錬の過程で出る鉱石くずを山に捨てた傷跡だ。ヘリコプターで山頂からばら撒いたそうだ。森を失った禿山に鉱石くずを捨てても流出してしまうため、コールタールを混ぜて粘着力を高めた。その結果、黒い山々になったという。ここには、木は生えない。
村の跡地には江戸時代のものと思われる、四つの墓石が立つ。廃村・松木の象徴となっている。
そこからさらに松木沢沿いを遡り、道をそれて山に少し入ると、小さな祠があった。硫酸を含んだ雨に打たれ続け、黒く変色し、風化も激しいが、三つ巴の神紋がかろうじて見える。八幡だろうか。側面には、「文化九年三月吉日」。1812年である。
人のいないこの場所に、詣でる者の絶えたこの場所に、神はおわすのだろうか。この小社は、存在自体がメッセージだ。
なお、松木村には廃村後も(元の)村人が旧村落内に墓石を立てたことが、近くの寺の資料から判断できる。つまり、人が住まなくなっても、土に還る場所は、「故郷」だったのだろう。
旧松木村を訪れ、ノスタルジーに浸るのはたやすいが、我々はここから震災復興の今と未来を学ばなければならない。「ただやるだけ」の復興事業に大義はなく、コミュニティの絆をつなぎとめる行動も、人々がふるさとの記憶をなくしてしまってからでは遅いのだ。
なお、昭和31年、排煙から硫酸を取り出す技術が確立され、ようやく、排ガスは無害化したが、村人が戻ることはなかった。
ライター 太田宏人
(平成27年4月1日掲載)