津波被害地を歩くと、その地域の方たちが、「道が分からないんです」と言うのを聴くことがある。
よそ者には、にわかには信じがたいことなのだが、実際、そうなのだという。「目印になる建物や塀、庭木などがなくなってしまうと、どこがどこなのか迷ってしまいますよ」
つまり、人間は「道を覚える」のではなく、「景色」で道を認識している、ということだ。
これは考えてみれば妥当なことで、私たちが信号機等のない道を第三者に案内する際に、「ここをまっすぐ行って、酒屋さんの角を右に曲がって」などと言うことからも分かる。
津波で町が壊滅し、町の風景が変わると、地元の人の案内ではなかなか目的地にたどり着けないのは、にべもない。しかし、取材というのは、現在の姿だけではなく、記憶の中の風景をお聴きし、記録することでもあると思っている。別の言い方をすれば、地域の方の言葉から、故郷の心象風景を透かし見る作業でもある。
その心象風景の核のひとつが、神社であることが多い。特に、神社の鳥居というのは、かなりインパクトが強いようだ。東京上野、下谷神社の阿部明徳宮司による被災神社への簡易鳥居の寄贈は、だから、意味がある。何もなくなった風景の中に、記憶をたどる「よすが」が戻るのだ。そしてなにより、特に朱色の鳥居は、原色を失った被災地の情景のなかで、とても目立つのだ。鳥居が立つことによって、そこから、故郷の光景の感触が甦る。
神社は、まさに故郷の場所である。
なお、平成27年5月26日現在、阿部宮司が寄贈した鳥居は49社50基を数える。
■皇后陛下の水仙
平成25年5月11日の夕刻、仙台市宮城野区蒲生の津波被災地で「水仙」を探していた。その2年前、つまり震災の年の4月27日に、両陛下は、当時、避難所となっていた宮城野区体育館をご訪問された。その際、ある婦人(Sさん)が皇后陛下にお渡しになった水仙であった。
Sさんは自宅を津波で流され、ご主人とともに蒲生区内の中野小学校へ避難した。第二波、第三波が小学校を襲ったが、奇跡的に中野小学校の周辺だけは水位が上がらず、この学校に避難した人たちは九死に一生を得たという。津波は七北田川を遡って周辺いったいを壊滅させた。小学校も川のほとりに位置したが、学校と川の間にある地蔵尊がみなを守ってくれたと信じられた(野ざらしだった地蔵尊には、震災後、祠が建てられた)。
Sさんは皇后陛下のことを「絶対に忘れない」という。「とても柔らかくて温かい手でした。この思い出は、すごい財産です」。
Sさんによると、皇后陛下はスリッパを履いていなかったという。靴下も着けず、ストッキングのままの足で体育館内を小走りで移動されていたという。
「スリッパを履いたら移動が遅くなると思われたのかもしれませんが、寒かったのではないかと思います」
被災地に関するご公務以外でも、常に過密日程をこなされる天皇陛下。皇后陛下は、天皇陛下をお気遣いになり、できるだけご負担をへらすべく、ご自身は小走りで体育館の中を移動していたのではないかと思われる。そして、恐れ多くも、驚異的なことに、両陛下は避難者全員にお声をかけた。
その姿を見ていたSさんは、ふいに、もっていた水仙の鉢植えを皇后陛下に差し上げたという。
「たまたま、自宅のあった場所の様子を見に行ったら咲いていたので、鉢に入れて、避難所に持ってきていました。それを渡しました」
それをごく自然に受け取り、大事にお持ち帰りになった皇后陛下のお姿は、ニュースでも流れていた。
言葉を超えたものを感じずにおれないのは、私だけではないだろう。
Sさんはその後、みなし仮設に移った。平成25年にお会いすると、ご家族が入院中で、「自宅があった場所へはいっしょに行けないけど…」ということで、道を教えてくださった。
「まだ水仙は咲いていますよ」。
とはいうものの、冒頭に記したとおり、目印がなく、道に迷ってしまった(レンタカーのカーナビは、番地を入力しても、『この場所です』と限定はしてくれないタイプだった)。
そうして目的地付近を歩くと、夕闇の中、黄色い水仙を見つけた。
可憐な原色が、被災地の中、風に揺れていた。
ライター 太田宏人
(平成27年6月2日掲載)