被災地復興の「肝」は熱量ではないかと思う。地元の人や支援に関わる人の、事に当たる熱量だ。
被災神社に樹を植え、鎮守の森を再生または形成し、もって地域の核たる神社を盛りたてる、という主旨で行なわれてきた「みんなの鎮守の森 植樹祭」は、人々の熱量が成果に直結するものであった(私はスタッフとして関わっていたので手前味噌ではあるが)。
この試みは、地域の方や、地域外のさまざまな方の「復興への熱量」のベクトルを、神社と植樹へ凝集させていたと思う。
平成27年6月14日、植樹祭は第11回にして終了した。終わってみて感じるのは、やはり、植樹を監修し、現地での陣頭指揮を執った宮脇昭先生の熱量の大きさだった。
宮脇先生は生きる伝説のような植物学者だ。国内外で4000万本以上の植樹を行い、「植樹の神様」とも言われている。
■鎮守の森が生命や財産を守る
宮脇先生は、針葉樹林や落葉樹だけの森は人工的に造られた偽の森だ、と言う。これらは地震・台風などによる津波・洪水・土砂災害に弱く、抜けた木々による2次被害を起こす。
しかし、日本に本来生えていた常緑広葉樹は地中深くまっすぐに根を伸ばす直根性・深根性であり、災害に強い。その証拠に、東日本大震災の津波に耐え、奇跡的に残った社殿の多くが、こういった日本本来の植生の森に守られていた、という。
「鉄とコンクリートのような死んだ素材による人工構造物では、人々の生命財産を守れないことは今回の震災で実証された。巨大防波堤の建設には何十億円もかかるが、常緑広葉樹による植樹は安くて強く、9000年も持続する。いのちを守るのは常緑広葉樹による本物の森である」
宮脇先生は、その土地本来の植生の姿を「潜在自然植生」と呼んだ。そして、潜在自然植生の森のお手本としたのが、神社を取り巻く「鎮守の森(杜)」だった。さらに、宮脇先生のすごいところは、この潜在自然植生の森を短期間で造る「宮脇方式」を開発し、世界中で植樹指導をしてきた活動家でもある、という点だ。
宮脇方式というのは、1メートル四方に3本、種類の違う木の苗(プラスチック容器=ポット=において1~1.5年育てられたもの)を植えるというもので、「混植・密植」である。苗は常緑広葉樹のほか、一部に落葉樹も使う。だいたい、1回の植樹で20種類以上の樹木が植えられるが、木々はその土地本来の植生から選ばれている。
この植樹方式は木と木の競争力を高めさせるため、早ければ2年で大人の背丈を超す森が形成される。そして、最終的には強い木が残る。つまり、一本一本にこだわった植樹ではなく、まさに森そのものを造るのが宮脇式植樹なのだ。だから、「サクラだけ植えたい」といった「植木」はできない。
植樹後3年くらいは雑草を抜く必要があるが、その後は木のほうが強くなるため、雑草は放置してもよい。草引きの必要はないといわれている。
■「故郷」に直結する植樹祭
「みんなの鎮守の森 植樹祭」は、日本財団の資金援助を背景に、平成23年6月24日の八重垣神社(宮城県山元町)を皮切りに、宮城県と福島県で合計11回、ならびに、関連するフォーラムが1回行なわれた。
主催は各神社で、日本財団が共催。神社本庁と開催地の県神社庁等が後援し、日本文化興隆財団が事業運営を担当した。また、苗を植える圃場整備や植樹全般の作業はエスペックミック株式会社とNPO法人地球の緑を育てる会が担当し、圃場整備等の工事は、基本的には地元の業者に発注された。開催実績については、別表(PDF)をご覧いただきたい。
宮脇先生は、そのほとんどの回で、現地で実際に植樹指導を行なった。そのレクチャーは、「楽しい授業」のようだった。その際、道を究めた方というのは「いのちの本質を識っているのだな」と何度も感動させられたものだ。
とくに、「生きているだけで有り難いんですよ」という一言。
私は、被災地の外から訪れる支援者が、被災した側を諭すような言動には、どうしても、なにか抵抗を感じてしまうのだ。それは、両者の距離感が縮んでも、である。良い悪い、ではなく、単純に感覚的なものだ。しかし、宮脇先生の一言は、重い。そして、慈愛にあふれていた。
木を植え続けてきた一人の人間が発するその一言に、なんの衒いも遠慮もなかった。「上から目線」であるわけがない。いのちのありようというのは、まさに、あるだけで有難いのだ。震災で、多くの人が生きるか死ぬかの瀬戸際を見てきた。文字通り、すべてを流された人もいる。
そういう人たちを前に「生きているだけで、有難いんですよ」と語りかける宮脇先生。その言葉に涙した参加者がいたのを知っている。
そうして、神社に森が蘇る第一歩が各地に刻まれていった。
植樹祭というのは不思議な体験で、多くの参加者が、「自分が植えたのだから、また見に行きたい」「その後の草引きをしたい」という気になるらしい。
日本文化興隆財団の佐久間宏和事務局長は植樹祭を牽引した功労者だが、彼は「地図に残る仕事だ」と言っていた。そうかもしれない。
植樹祭を開催することで、当該の神社には他地域からのボランティアだけではなく、当然、神社の氏子が集まる。そして、自らの手で心を込めて、苗を植える。
遠くに避難している氏子も集まる。仮設住宅やみなし仮設で暮らす氏子も集まる。旧知の人々との再会を喜び、近況を語り合う姿、社殿(その多くが津波で流されたため、現在は仮社殿)にお参りをする姿が見られる。祝祭の風景だ。まつりは、人を結びつける。
氏子のなかには新天地へ移った人もいる。なかには故郷の墓まで移した人もいる。集団移転や高台移転も含め、震災以前と同じ場所には住まないことを決めた氏子が大勢いるのだ。
しかしながら、人はどこに住もうとも、心の中に、時空を超えた「故郷」を持つことができる。それは、生活の場としての故郷ではない。いわば、魂の故郷だ。この故郷は、私たちの背中を支え、アイデンティティー形成に寄与し続ける。
地域住民にとって、鎮守の森は心が還る場所である。植樹祭は心象の故郷を現出させる事業でもあるのだ。そして、宮脇先生が言うように、いのちを守る森だ。
もちろん、その神社の周辺に再び人々が住み、生活の場となる場合もあるだろう。最終回の八幡神社がまさにそうであった。であればなおさら、宗教・宗派を超えて地域の人々が集まることができる「神社」の再興は、都市計画上、きわめて重要であるといえないか。
いずれにせよ、人は、自分が植えた木を見に行く。人々の手によって鎮守の森が育てられ、護られて行くかぎり、神社は、彼らの「還る場所」としてあり続けるだろう。
親から子へ、そうして世代が変わるときに、こう語られるに違いない。「この鎮守の森は、お父さん、お母さんたちが植えたんだよ。この森をしっかり守っておくれ」、と。
故郷の場所は、ここにある。
ライター 太田宏人
(平成27年7月2日掲載)