■今年も飯舘村へ
震災以来、年末年始は福島県飯舘村の綿津見神社(同村草野)で「二年参り」のお手伝いをしている。二年参りとは大晦日(おおつごもり)の夜更けに神社に詣で、神社で年を越し、もう一度お参りするという習俗だ。一度で2年分のご利益があるといわれる。
氏子さんたちは、相馬地方特有といわれ、他の地域のものより厚みのある「箱札」(祈祷札)を持ち寄り、これらを境内でお焚き上げする斎火(いみび)に投じる。そして、深夜0時過ぎに始まる新年の一番祈祷に参加して新しい箱札を授かり、氏神さまのご加護のもと、新しい一年の安寧を願うことが、この村の慣わしだった。
平成27年12月31日、私は綿津見神社へ到着した。これで5回目である。例年、31日には沿岸部の各神社を回り、晩に綿津見神社へ着くのだが、雑用係とはいえやることは結構ある。それで今回は、朝10時過ぎに到着した。
社務所の中はすでに何日も前から、箱札の奉製所と化していて、足の踏み場もない。綿津見神社の多田宏宮司が兼務する大雷神社(だいらいじんじゃ/同村飯樋)の箱札もここで作るので、なお忙しい。
到着後、直ちに仕事に入る。
箱札は、3,000円、5,000円、10,000円...と、値段によって大きさが変わる。人の背丈ほどもあるのは10万円だ。これはあまり出ない。最も多く出るのが5,000円の札である。
中が空洞になっている木札には、「綿津見神社祈祷大麻」などの文字が書かれている。神社で奉書紙に願意と願主氏名を記入し、これで木札を包み、水引を結んで、完成である。
多田宮司と長男の仁彦(きみひこ)さんのほか、もう何十年も年末年始に手伝いに来ている4人の「熟練」の方々が、箱札づくりを担う。この四人は宮司さんの幼馴染。大晦日に放送されるNHKの「紅白歌合戦なんて観たことがない」という。皆さん、年末年始に合わせ、神社まわりの清掃などもこなす。まさに、神社を盛り立てる現代の神人(じにん)だ。
箱札に記す願意は、家内安全や身体堅固、商売繁盛、諸災消除、交通安全など。こういった願意は数多く出るので、透過性のあるスクリーンで文字を奉書紙に刷る。スクリーンはその都度、水道で洗う(私のお仕事はおもにこれである)。そのほかの特殊な願意や願主の氏名は筆耕係の人が一本一本、墨書する。大雷神社の分と合わせて400本以上作るので、大変な仕事量だ。
新年の一番祈祷の祭典中に、祭主がこれらの願意と願主をすべて読み上げる。祈祷参加者には、自分の願意と氏名の読み上げの瞬間に立ち会いたいという気持ちが強い。
31日はあれよあれよと時間が過ぎてゆく。途中、神社側から食事の供応があり、夕食時には「一杯」やって、さらに箱札作りは続く。完成した箱札は順次、幣殿に運び込まれた。大雷神社の祈祷は仁彦さんが担当するので、仁彦さんが大雷神社へと箱札を運搬していった。
■変わりゆく年越の風景
午後11時、例年より40分以上も早く、多田宮司がお焚き上げ開始の指示をお手伝いさんたちに出す。今回は、これまでになかったことであるが、神棚や古い神札が大量に神社に持ち込まれたため、そのお焚き上げに時間が掛かると見越しての判断だ。
震災発生から4年が過ぎても全村避難が続く飯舘村では、家屋の傷みが許容範囲を超えてしまった。風雨による経年劣化、水道管の破損・劣化、棲みついた獣や虫による糞尿被害や建材の食害、電線が獣にかじられて断裂することもあるという。もはや人が住める状態ではない。環境省では27年9月から、「帰還の意思のある」世帯の荒廃家屋については無償で取り壊しを開始した。これらの家屋から持ち出された神棚が、綿津見神社に持ち込まれたのだ。その数、およそ20。神棚に収められていたであろう戦前からの古い神札の束もあった。
話は変わるが、年末年始の綿津見神社の私の記事について、第三者から「毎年、代わり映えしませんね」と言われたことがある。確かに「変わっていない」ことはある。たとえば、全村避難が続いているとはいえ、綿津見神社への箱札の依頼数は震災前とあまり変わらない。これはすごいこと、ではないか。人々が神社/神さまをよりどころとしている何よりの証拠である。この背景には、避難指示をものともせず、多田宮司が神社に留まり続けているからこそだ。それを差し引いても、祈祷の依頼数は「変わらないこと」の重い意味を示している。
一方で、「変わったこと」もある。特に、前回(平成26年~27年)では震災後初めて、お焚き上げの開始時に境内に参詣者が一人もいなかった。また、一番祈祷への参加者も激減した。前回は、天候が悪かったことが影響したと思われる(時々、吹雪となっていた)。上述のように、村の家には物理的に泊まることができない人が多いため、どうしても、避難先と神社の往復になってしまう。深夜の雪道は、村の道を熟知している人でも嬉しいものではない。
だから前回、神社で「二年参り」をしたのは、一番祈祷に参加した数十人だけであった。震災前の二年参りは、かなり賑わったというし、震災の年の大晦日も、境内はそれなりに賑わっていた。
今回はどうであったか。天候は穏やかであったが、やはり、年越の時点での状況は昨年と同様であった。
もはや、二年参りという風習は廃れざるを得ないのだろうか。
しかし、繰り返すが、箱札の祈祷の依頼数は震災前とあまり変わっていないのだ。
では、氏子たちはどの段階で箱札を取りに来るのだろうか。かつては、一番祈祷で名前を読み上げてもらい、箱札を持ち帰るのがスタンダードであった。しかし近年は、というよりも今回特に感じたのだが、氏子たちは元日の夜が明け、昼前までに箱札を取りに来る人が多かったようだ。もちろん、元日だけではなく、後日取り来る人もいたが、元日の午前中にピークを迎えていた。
今回は、来社時に祈祷を依頼する人も増えた。また、すでに祈祷は済ませているのに、来社時にわざわざ祈祷を依頼する人もいた。これは祈祷の理解について混乱があるのだろう。以前にはなかった個別対応が多くなり、多田宮司親子は対応に大変そうであった。
とはいえ、朝の冷え切った寒気に包まれる境内に氏子が集まり、震災直後にはまったくいなかった子供たちが走り回り、ニコニコ顔で授与所で好きなお守りを選ぶ姿は、この村の未来への(かすか、ではあっても)希望を感じさせるものであった。子供たちの笑顔が元日に、村の鎮守さまで見られたことは、何かとても象徴的だった。
ライター 太田宏人
(平成28年1月13日掲載)