■終わっていない「水害」
「新しい災害が起こると、ひとつ前の災害が忘れられてしまう」
茨城県常総市水海道(みつかいどう)地区の鎮守、八幡神社の柴沼陽禰宜は言葉を選んで、そう言った。
今現在(28年5月末)、「復興」といえば熊本。「被災地」といえば熊本。「支援」といえば熊本。メディアで取り上げられるのは今年4月14日に発生した熊本地震に関係した事柄が圧倒的である。それは仕方のないことかもしれない。しかし、「新しい災害」が起こり、「忘れられ」たとしても、「ひとつ前」の災害の復興が完了するわけではないのだ。
「どこまでの状態になれば『復興』が完了したと言えるのか、私には分かりません。しかし、水海道は、まだまだです。復興していないことだけは分かります」(柴沼さん)
「平成27年9月関東・東北豪雨」。住民は、いまも「被災者」だ。
台風17号と18号の猛威により、常総市内では鬼怒川と八間堀川が氾濫した。八幡神社の鎮座する常総市水海道橋本町の古矢邦夫・橋本町自治区長によると、同市では市域の1/2に泥水が流入し、8,324軒が浸水被害。6,000名を超える住民が避難し、現在でも300名弱が避難生活をしているという。
橋本町も被害が酷かった。2mを超す泥水が流れ込み、滞留した。町内の470軒のじつに9割が浸水1m以上の「大規模半壊」。橋本町商店街は、水害以前は活況を呈していたが、災害後、ほとんどの店が閉店。再建をあきらめ、店舗は解体された。一般宅でも解体し、そのままになっている例もある。橋本町からは約40世帯がよその土地へ転出した。
「歯抜け状態ですよ、夜に通ると実感します。真っ暗なんです」(古矢さん)。
八幡神社の境内にも泥水は流れ込んだが、拝殿は「昭和13年の水害を受け、床が高くなっているので浸水被害は受けませんでした。もともと、このあたりは少し高台になっているのです。そういう場所にお社を建てたのでしょう」と語るのは、同社の柴沼四郎宮司。「あの水害は風化したんでしょうか。継続的に取材に来る記者さんはいますが、メディアではあまり前面に出ません。しかし、水害というのは『水が引いたら終わり』ではないのです」
水害は、瓦礫を撤去し、家屋の清掃が終われば「収束」と思われがちだが、実際には違う。そもそも、浸水被害を受けた橋本町の残存家屋のうち、修理が終わったのは半数に留まる。
修理が終わっても、「カビ」に悩まされることもある。一度水に浸かった家屋はカビの繁殖が凄まじいのだ。だから、家屋の修理が終わったあとも、カビとの戦いは続いている。
古矢さんは、「祭の復興もまだです」と述べる。「地域の活動拠点で、橋本町の神輿や山車を保管していた橋本町民会館は窪地に建っていたため、5日にわたり約2m、水没していました。最後はポンプで水を排出しました」。
神輿、山車、子供神輿は使い物にならなくなった。町内会ではそれぞれを解体し、部品ひとつひとつを高圧洗浄等できれいにしたあと、町民会館の内部に並べた。そして、カビが生えないように扇風機で風を送っている。
だが、住民から修繕資金を集められる状況ではない。そこで、古矢さんたちはインターネット上で第三者に募金を呼びかける「クラウドファンディング」を始めた。目標額は100万円。締め切りは6月27日まで。
☆鬼怒川の決壊により水没してしまった神輿・山車を復活させたい!
(募集ページは下記から)
https://readyfor.jp/projects/hashimoto-cho
■■水害では消せない「故郷のDNA」
神輿、山車、子供神輿は、毎年7月に行なわれる水海道祇園祭で使われてきた。
11町会が参加・運営する水海道祇園祭は150年以上の伝統を有する。水海道の住民なら「ふるさとの風景」そのもの。「祇園祭のために1年間生きている」と断言する、祭り好きの住民もいるほどだ。とくに神輿渡御や山車曳きの参加は、住民の何よりの楽しみ。橋本町でも「全員参加」(古矢さん)だ。
橋本町自治区の岡野剛祭事部長は「橋本町の婦人部はおにぎりを4,000個も握って、祇園祭で配ります。祭りを通して、町内の結束が強いんです。これが、あれだけの災害でも人的被害を出さなかったことにつながっています」
祭りや神社がコミュニティの核として機能してきた。それだけに、祇園祭に神輿や山車の参加が叶わない状況は、「故郷存続の危機」といっても過言ではない。
実際、相当な危機感がある。
毎年5月5日には、橋本町が中心となり、「田村弾正祖霊祭」(田村弾正祭)が八幡神社で行なわれてきた。田村弾正は戦国時代末期に水海道を拠点に活躍した名君で、居城(館)は橋本にあった。八幡神社では、その墓所等を調査し、境内に祖霊社を建て、御霊を勧請した。その経緯から、平成5年から田村弾正祖霊祭を始めた。田村弾正の勇猛さにあやかり、祭りは5月5日に行なってきた(初回のみ15日)。平成12年からは、橋本町では神輿を出し、町内を巡幸することになったため、「地元の祭り」として、さらに定着した。
去年の水害を受けて、今年の神輿渡御は、実現しなかった。住民の落胆は大きかった。
失って初めて分かる大切なものがある。古矢さんや岡野さんたちは、神輿復興を誓った。
「なんとしてでも祇園祭には神輿を出したいんです」
岡野さんは、そう語った。
神輿の復活は、故郷復活である。水害で町も、人も、祭りもダメージを受けた。そして、受けたままである。
しかし、それでも、故郷のDNAを消すことはできはしないのだ。
ライター 太田宏人
(平成28年6月1日掲載)