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奈良県桜井市・談山神社の「嘉吉祭」で供えられる「百味の御食」は、古式ゆかしい独特の形式をもつ特殊神饌(しんせん)。約30種類からなる神饌は、毎年、神職や氏子さんの奉仕により調製・準備されています。前回までは令和7年の神饌の調製についてお伝えしてきましたが、今回は神饌の話題からいったん離れて、談山神社の鎮座地をご案内。同年10月11日に行われた嘉吉祭宵宮祭(よいみやさい)の模様も紹介します。
鎌足公が眠る山
多武峰(とのうみね)に鎮座する談山神社の主祭神は、藤原氏の祖・鎌足公です。この連載<1>で、神社の歴史は、鎌足公が多武峰山頂に改葬されたことに始まり、当初は寺院だったことを紹介しました。では、なぜ鎌足公はこの地に改葬されることになったのでしょうか。
じつは、多武峰は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)と中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)が極秘裏に談合を行った山。この談合により、皇極(こうぎょく)天皇4年(645)、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち、一連の国政改革、いわゆる「大化の改新」が成し遂げられたのです。以降、この山は「談(かたら)い山」などと呼ばれ、「大化改新発祥の地」との伝承が生まれました。「談山神社」の社号もこれに由来しています。

鎌足公は天智天皇8年(669)に没した後、摂津国・阿威(あい)山(現在の大阪府高槻市)に葬られましたが、白鳳(はくほう)7年(678)、唐より帰国した長男・定慧(じょうけい)和尚が、その遺骨の一部を多武峰山頂に改葬し、供養のために十三重塔と講堂を建立して妙楽寺(みょうらくじ)と称しました。さらに、大宝元年(701)には神殿を建て、鎌足公の御神像を安置しました。
談山神社の境内にある十三重塔(画面一番上の画像参照)は、白鳳7年(678)に創建された塔婆(とうば)。現存のものは享禄(きょうろく)5年 (1532)の再建ですが、木造十三重塔としては現存世界唯一の貴重なものです。また、神廟拝所(しんびょうはいしょ)は、白鳳8年(679)に創建された妙楽寺の講堂で、現存のものは寛文8年(1668)の再建です。内部壁面には羅漢(らかん)と天女の像が描かれ、鎌足公の御神像(御神体とは別のもの)が安置されています。

鎌足公のお墓がある山頂へは、境内にある山道入口から歩いて行くことができます。筆者も宵宮祭の日、昼間の時間を利用して行ってみることにしました。

山道入口の案内札には、談山(かたらいやま)まで290m、御破裂山(ごはれつざん)まで510mと書かれています。この2つは、談山神社の背後にある隣り合った山。談山については先述のとおりですが、鎌足公のお墓があるのは御破裂山の山頂です。

山道は歩きやすく整備されていて、良いハイキングコースになっています。筆者が歩いた日は雨上がりで、靄(もや)が立ち込めた森に光が射し、神々しい光景に出会えました。

こちらが御破裂山です。鎌足公のお墓がある山頂には石段が設けられ、お参りできるようになっています。周囲には木々が豊かに茂り、晴れていれば絶好のビュースポットでもあります。それにしても、この山の名のただならぬ響きが気になります。その由来は、なんでも「国家に重大な異変や危急が起こるとき、山が鳴動し、頂上にある鎌足公の墓所や御神像が破裂する」という伝説によるものだそう。そして、御破裂山が実際に「鳴動」した事象は、平安~江戸時代の記録にたびたび出ているんだとか。かつては鳴動を観測する場所が指定され、地震などと鳴動を区別して確認する基準もあったそうで、鳴動が起こった際には朝廷に奉告されたといいます。
談山神社の歴史を窺える場所は、他にもあります。神社前の道を下れば、神仏習合(しんぶつしゅうごう)時代の東大門跡が残ります。同じ道を反対方向に行けば、石仏のある西大門跡へ行くこともできます。

静かに佇む苔むした遺物が、遠い記憶を語りかけてくる……そんな妄想をかき立てる場所でした。
宵宮祭と当屋(とうや)
山を巡った後、神社に戻った筆者は、この日夕刻から行われる宵宮祭を取材するため、本殿の手前に建つ拝殿(はいでん)に陣取りました。お祭りの拝観は自由で、拝殿には、多武峰に宿泊している観光客の方々などが集まっています。
目の前に建つ談山神社の本殿は、丹塗(にぬり)の春日造(かずがづくり)の荘厳な社殿。本殿と拝殿の間には、「石の間」と呼ばれる石畳の場所があります。お祭りの開始を前に、この「石の間」の本殿に向かって左手に神職、右手に氏子さんたちが着座しました。

氏子の前列3人は「当屋」と呼ばれる役で、白い浄衣(じょうえ)に烏帽子(えぼし)姿で、笏(しゃく)を手にしています。当屋とはお祭りの中心的な役割を担う役で、本年度の本(ほん)当屋、前年度の後(あと)当屋、来年度の前(まえ)当屋の3人がいます。多武峰の各戸が持ち回りで当屋を務めますが、令和7年10月現在の戸数は9軒で、高齢で奉仕が叶わない家などもあり、順番はすぐに回ってきます。
令和7年の本当屋は、連載<4>で飯御供を調製していた六條庸行(ろくじょう・のぶゆき)さんです。「子供のころは神社が遊び場で、当時の宮司(ぐうじ)の息子と一緒に境内でよく遊んだものです。祭りには、父が亡くなった27歳のときから奉仕しています」とのこと。明治維新以前の神仏習合(しんぶつしゅうごう)時代、六條さんの家は塔頭(たっちゅう=僧房)だったそう。「百味の御食」の米御供(こめごく)や毛御供(けごく)の調製は、かつては塔頭の家しか奉仕できませんでした。一番多かった江戸時代には40以上あった塔頭ですが、そのうち現在残る家は4軒だそうです。
後当屋の上村晃生(あきお)さんは、神社の向かいに建つ多武峰観光ホテルの支配人です。「もともと塔頭があった場所に、明治時代の末、祖父が開業したのがうちのホテルです。その後、氏子として神社のお祭りに奉仕するようになりました」と言います。
前当屋は、連載<3>でも登場した上杉忍さん。<2>で米御供を奉仕していた奥様の征子さんのところでも紹介しましたが、上杉家は代々神職の家系で、先代は談山神社に奉職していたそう。令和8年の本当屋は、初めて息子の智人(ともひと)さんが奉仕する予定です。
17時、暮れなずんでいく石の間で、祭儀が始まりました。連載<1>でも登場した禰宜(ねぎ)の土居(どい)さんが、祓詞(はらえことば)を奏上(そうじょう)し、一同をお祓い。その後、金子清作宮司が神前に進み、一拝。神饌がお供えされた後、宮司が祝詞(のりと)を奏上しました。
その後、本殿階下の案(あん)上に奉安されていた祭文(さいもん)の巻物が、前当屋から本当屋へ手渡されます。

受け取った本当屋は、神前で祭文を奏上するのですが、祭文は長いためすべてを読み上げるわけではなく、巻物をサッと広げ、また閉じる所作でこれを表します。
その後、神前に玉串を捧げ、神饌が撤せられ、宮司が一拝して、宵宮祭は終了しました。

祭りの後、拝殿から仰いだ空は、透きとおった青に薔薇(ばら)色が混じった神秘的な色。ひとときの美しい光景を楽しんだ後、提灯(ちょうちん)を手に宿へと帰っていく観光客の後ろ姿を見送ったのでした。
次回は、いよいよ嘉吉祭当日の模様をお伝えします。
[取材・文/中尾千穂]
百味の御食 談山神社・嘉吉祭の特殊神饌<4>は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/koushitsu/detail/100958
百味の御食 談山神社・嘉吉祭の特殊神饌<3>は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/koushitsu/detail/100953
百味の御食 談山神社・嘉吉祭の特殊神饌<2>は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/koushitsu/detail/100954
百味の御食 談山神社・嘉吉祭の特殊神饌<1>は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/koushitsu/detail/100948
談山神社の公式サイトはこちら↓
https://www.tanzan.or.jp/