読みもの

お能の扉、開けといたよ

presented by 月イチ能楽講座 第9回
令和8年3月13日
大鼓方・河村凜太郎さん
「能楽師の家に生まれて」#2


 中世にさかのぼる伝統芸能である「お能」は、知れば知るほど面白く、人をひきつけて離さない魅力があります。でも、古い時代の言葉づかいや、ゆっくりした抽象的な動きなど、予備知識なしでは難しく感じてしまうことも。
 そんなお能の世界の扉をぐぐっと開いてくれるのが「月イチ能楽講座」です。関西の若手能楽師のホープたちによる、軽妙なトークに迫力ある実演を交えての解説は「わかりやすい!」「楽しい!」と評判。そのメンバーによる本連載。前回に続き、京都を拠点に活躍する若手の大鼓(おおつづみ)方である河村凜太郎さんに、これまでの歩みを綴っていただいています。


月イチ能楽講座
東京・大阪・京都で毎月開催、毎回お能の1つの曲(演目)を題材に、能楽師シテ方の大槻裕一(おおつき・ゆういち/写真右)、小鼓方の成田奏(なりた・そう/写真左)、大鼓方の河村凜太郎(かわむら・りんたろう/写真中央)が、若いエネルギーとみなぎる情熱、関西ノリの話芸とキレのある技で、たっぷり解説。オモシロ企画満載のインスタグラムも必見。
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https://www.instagram.com/noh_once_a_month/



大鼓の稽古が始まる

 前回書いたように、私は幼稚園の頃に謡(うたい)と仕舞(しまい)の稽古を始めていました。でも、肝心の大鼓(おおつづみ)の稽古が始まったのは、それよりしばらく後のことでした。なぜなら、大鼓は能の囃子(はやし)の楽器の中でも特に重く、小さな身体で扱うには難しい楽器だったからです。


 いつから本格的に稽古が始まったのかは、はっきりと覚えていません。大鼓は家に当たり前のようにあり、稽古と呼べるほどではない時期から、何度も触らせてもらっていました。持ち方についても、本格的な稽古が始まる前には、自然と身についていたように思います。

 しかし、大鼓の稽古は、私にとって決して楽なものではありませんでした。最初のうちは、簡単な手(打ち方)を父と一緒に楽しく打っていましたが、次第に多くの手を覚え、それを謡や笛の唱歌(しょうが=笛の演奏を言葉に置き換えて歌うこと)に合わせて打つという、難しい稽古へと変わっていきました。“囃子の骨格をつくる”といわれる大鼓は、“一音の重み”が大事で演奏には強く打ち込む力が必要です。手が痛くもなりますし、非力な子どもでは強く打ち込むことができません。間違えれば、父から容赦ない怒声が飛んできます。涙を流しても許されず、泣き止むまで無言の時間が続くことも、珍しくありませんでした。

 小学校高学年になると、反抗心も強くなり、稽古の途中で逃げ出してしまうこともありました。この頃から私は、「能楽師にならなければならない」という使命感を、次第に重荷として感じるようになっていきました。

子どもだけの能の舞台

 大鼓での初舞台はというと、記憶はないのですが、記録を見ると10歳くらいのときに出させていただいた滋賀県長浜市での薪能(たきぎのう)だったようです。ただ、それ以前にも、父の素人のお弟子さん方の発表会では、「番外」として出る機会がありました。


 鮮明に覚えている舞台で一番古い記憶は、小学校6年生のときに経験した、子どもだけが出演する能です。会場は大阪の大槻能楽堂、曲(演目)は『土蜘蛛(つちぐも)』でした。共演者には知りあいの京都の子もいましたが、半分以上は大阪の子で初対面。そのときのシテ(主役)は、現在「月イチ能楽講座」で一緒に活動中の大槻裕一さんでした。子どもだけの場合、誰かが間違えるとみんながつられてしまいがちなので、舞台に向けた父の稽古も厳しいものになりました。嫌々ながら稽古を受け、臨んだ舞台でしたが、自分が舞台に立てる貴重な機会であることは理解していたので、嬉しい思いもありました。

 舞台が終わった後には先生方からのご指導もいただきましたが、当時の私はそれを素直に受け止めることはなかなかできませんでした。稽古を始めた当初は、褒められることがモチベーションになっていましたが、この頃は褒められても嬉しくありません。すでに大人の舞台を「すごいなあ」と思いながら観ていた私は、自分の演奏が、それとはまったく違うとわかっていたからです。

父と能への反発

 小学校高学年から、私は「京都能楽養成会」に所属していました。養成会は文字通り能楽師を養成するための組織で、京都の他、東京や大阪、名古屋にも同様の組織があります。所属しているのは能楽師の家の子がほとんどですが、能楽師を志して一般の家庭から入ってくる方もいます。自分が小・中学生の頃は、囃子方は私を入れて5名で、うち1名が一般家庭から入った方でした。


 養成会では定期的な発表会に参加させていただいていました。年に6~7回と頻繁に発表会があるので、発表会が終わったら、すぐに次の発表会の稽古をしなければなりません。舞台で間違えたら他の人の足を引っ張ることにもなり、プレッシャーでした。

 しかし、中学生から高校生にかけての私の能への向き合い方は、決して褒められたものではありませんでした。反抗期に入った私は、父との関係も悪化し、能そのものにも嫌気が差していました。

 発表会後には、先生方から舞台についての講評やご指導をいただくのですが、その場でも指導役の一人だった父から大声で叱られることが度々ありました。やる気のない舞台に立っては怒られ、それがさらに嫌気を生む――そんな悪循環に陥っていました。

外の世界に目を向けて

 高校生になると、将来の進路について考えるようになります。私も例外ではありませんでした。その頃の私は、能楽を細々と続けてはいたものの、将来は別の道に進みたいと考えるようになっていました。幼い頃から抱いていた「能楽師にならなければならない」という思いは、いつの間にか小さくなっていました。

 私は大学に進学し、教員免許を取得することを目標に定め、教員の道に進むことも真剣に考えていました。今思うと安直かもしれませんが、高校生だった自分にとって、両親や能楽の世界以外で一番身近な大人といえば、学校の先生です。良い先生に恵まれたこともあって、教員の仕事に憧れがありました。そのことは、両親にも伝えていました。

 これまでの人生で最も能から遠ざかっていた高校時代、私が情熱を注いでいたのが、部活で始めたバドミントンです。ほとんどの時間をバドミントンに費やすほど打ち込んでいました。学校の先生になれば、部活の顧問としてバドミントンにかかわれるかも、と思ったのも、教員を志望した理由のひとつでした。競技に熱中していた私は、進学した大学でも体育会のバドミントン部に入りました。


(次回に続きます)

#1の記事は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100823

成⽥奏さんの記事は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100769
大槻裕一さんの記事は↓
https://www.nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100815
 
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