読みもの
平成15年(2003)4月~同18年(2006)3月まで宮内庁楽部(がくぶ)の首席楽長を務めた岩波滋さん。雅楽(ががく)とは縁もゆかりもなかった少年は、運命に導かれるようにして雅楽と出会い、数々の挫折を乗り越えながら43年間にわたって笙を吹き続けてきた。戦後の雅楽の歴史とも重なる楽師(がくし)としての歩みを岩波さんが語ります。
岩波滋
昭和16年(1941)2月8日、長野県松本市生まれ。同30年(1955)、宮内庁楽部の楽師を目指して楽部の楽生(がくせい)となり、同38年、楽師に。平成15年4月、楽部のトップである首席楽長に就任。これは、家の芸として雅楽を伝えてきた「楽家(がっけ)」以外の出身者として初めてのことであった。楽師として昭和の大喪(たいそう)の礼、平成の即位礼に奉仕したほか、楽部の海外公演や現代作曲家とのコラボにも参加。管楽器は笙(しょう)が専門。令和8年秋現在、長男の孝昌(たかあき)さん、孫の斎木洸太(こうた)さんも楽師、岩波修孝(なおたか)さんは楽生である。
祖父の義太夫(ぎだゆう)と母の長唄を聞きながら育った
僕は昭和16年(1941)2月8日、長野県松本市で生まれました。結婚した時に妻の名字に変えたので、誕生した時の姓は鶴川です。母の家の姓は井ノ根(いのね)。両親が結婚したのは昭和9年(1934)、父は25歳、母は19歳。お互いに100メートルも離れていないご近所同士での結婚でした。家の前を通りかかる母を父が見染めたと聞いています。母はまだ結婚したくなかったようですが、なにしろ戦前の話ですからね、20歳前には結婚しないといけないような風潮には逆らえなかったのでしょうね。

3歳年上の兄がいて、僕は次男です。早産の未熟児だったので、生まれた時はサルのようだったといつも言われていました。3年後に弟が生まれ、3兄弟で育ちました。

鶴川家も井ノ根家も音楽にかかわりがある家ではありませんでした。ただ母方の祖父は義太夫を趣味にしていて、母は長唄を習わせられたと言っていました。僕は祖父の義太夫と母の長唄を聞きながら育ったんです。
後で詳しく話しますが、戦争で出征していたり、病気になって療養していたりと、父が不在がちの家で育ったので、僕は母方の井ノ根家の影響下で育ちました。
母の話では、井ノ根の家の本家は松本でもそれなりに大きな農家だったようです。祖父は次男坊でしたが、田畑を分けてもらって独立し、1男5女を育て上げました。僕の母は大正4年(1915)生まれの4女ですが、伯母たちは明治生まれ。祖父はあの時代に娘全員を女学校に進学させたということですから、開明的で教育熱心だったのでしょうね。母が言うには、本をよく読んでいて、学者のような人だったようです。

母も本が好きで、お話が上手でした。幼い頃は夜寝る前に、母が必ずひとつお話をしてくれるという習慣がありました。日本神話から信州の民話に童話、ヘンデルとグレーテルみたいな西洋の童話……、毎日違う話を1話ずつ。おかげで小学校に入る前には、金太郎や桃太郎、浦島太郎なんかは当たり前、酒呑童子、海彦山彦、大和の大蛇(おろち)……、自分の中に30くらいのお話がありましたね。
最初に買ってもらったのは『親指姫』の絵本でした。母が女学校時代に使っていた歴史の教科書に載っている聖徳太子の写真はよく覚えています。それから明治時代の西南戦争、軍艦三笠や正月風景といった彩色の絵本などに掲載されていた絵は、今もありありと目に浮かびます。
小学校に入学した頃には、『冒険王』や『おもしろブック』を毎月読んでいました。『冒険王』に載っていた小松崎茂のイラスト、『おもしろブック』に連載されていた山川惣治の『少年王者』に夢中でした。

取材・文/岡田尚子
(次回更新:11月2日予定)