平成27年8月25日(火)~26日(水)にわたり、当財団が共催する「硫黄島訪島事業」が開催され、硫黄島戦没者遺族関係者及び青少年の55人が渡島し、慰霊巡拝をしました。
以下は、当財団の記録として同行したフリーライターの太田宏人のレポートです。
平成27年度・硫黄島訪島事業の記録
◆「これは予習ですね」と、遺族は言った
平成27年8月26日、硫黄島(東京都小笠原村)へ渡った。
大東亜戦争末期、硫黄島を守る日本の陸海軍は、1/5以下の兵力にも関わらず、米軍に1ヶ月以上も抗戦。人的被害では米軍のほうが上回るという「勝利なき大勝利」を収めた激戦の島だ。
今回は、日本文化興隆財団と日本青年会議所(JC)関東地区協議会国民主権確立委員会の共催による「硫黄島訪島事業」に、日本文化興隆財団の記録係として参加した。
正直なところ、あまりにも多くの感情が湧き、当日のメモ書きは支離滅裂だった。ただ、はっきりと記憶しているのは、遺族たちの「慰霊」への渇望と葛藤に言葉を失ったことだ。
文字通りの絶海の孤島である硫黄島は、ありとあらゆる場所が慰霊空間だった(実際、数多くの慰霊碑やそれに類するものが林立している)。
島で味わった感覚は特別だった。硫黄島の滞在中、ずっと感覚が麻痺していた。それと同時に、胃が内部から押し上げられるような苦しさも感じていた。
訪島後2週間が過ぎた今も、それを感じている。
*…*…*…*
◆訪島事業について
硫黄島は、現在は島全体が自衛隊基地の敷地であり、基地施設の保全工事、遺骨収集事業、慰霊巡拝で特別に許可された者などをのぞき、一般人は上陸できない。
今回の訪島事業は、遺族参加の慰霊巡拝に該当する。厚生労働省と内閣府の許可に基づき、自衛隊の協力を得て実施された。JC同委員会では、愛国心涵養と人材育成を目的に平成19年から同事業を主催してきたが、今年から日本文化興隆財団が共催に加わり、硫黄島戦の戦没者遺族らのアテンドを分担することになった。
参加者内訳は、遺族、青少年、スタッフの合計55名である。
遺族の多くは戦没者の子で、ほかに孫たちも参加していた。青少年枠での参加の多くがサレジオ工業高等専門学校(東京都町田市)の生徒たちで、「硫黄島へ行ったことのある先生からお話を聴いて興味を持った。だから、これから大人となる一員として、自分の眼で実際に見たかった」と、参加の動機を述べていた。
一行は前日の25日、都内で集合し、航空自衛隊入間基地のある埼玉県入間市へバスで移動。ホテルチェックインの後に入間市民会館にて結団式と勉強会をおこなった。
勉強会では、硫黄島戦を生きのびた秋草鶴次氏が講演。秋草氏は終戦当時17歳の少年兵で、重傷を負ったところを米軍に拘束され、捕虜となったという。
秋草氏は、昭和19年6月から始まった米軍の硫黄島空襲と艦砲射撃や、翌年2月の戦闘開始直前まで続いた地下陣地(壕)の建設、そして戦闘について淡々と語っていた。そのもの静かな語り口は、実際に経験した人だからこそのものなのだろう。しかし、秋草氏は終盤、熱を込めて、「今の平和が多くの人命の犠牲によって成り立っていること、そして、我々には悲劇を繰り返してはいけない」と熱く訴えた。その言葉が胸に重く刺さった。
その後、食事会があり、参加者は親睦を深めた。私は遺族のテーブルに座らせていただき、慰霊巡拝についての遺族の想いを聴いた。なかには、何十年も遺骨収集事業に参加して硫黄島へ通う人もいれば、「最近まで、遺骨収集には反対でした。掘りだしても、活火山である硫黄島の遺骨は、地熱や水蒸気のために、ぼろぼろになっているんです。眠っている者をそこまでして起こさなくても…。という思いでしたが、やっぱり、父がいる島ですから」と、数年前から訪島している人もいた。
各人各様の想いを重ねていることがよく分かる。しかし、戦没者の子供たちの多くが、東西8km、南北4kmというこの孤島について、かなり熟知しているということは共通している。まるで、自分がかつて住んでいた島であるかのように、「●●連隊の壕は◎◎にある」とすらすらと語るのだ。
彼らの多くに、父親の記憶はあまりない(参加した遺族のうち、子供世代の方の最高齢は82歳。最年少は70歳。それぞれ、硫黄島戦当時の年齢は12および0歳である)。しかし、彼らは硫黄島という場所を媒介し、その人生の多くの時間を、父親に接して来たのだろう。その70年以上の時間の重さが、彼らの言葉の重さに直結していた。
◆「父の墓標」
翌26日、航空自衛隊のバスでホテルから入間基地へ。午前7時50分にC-130H輸送機に搭乗。8時10分、同基地離陸。機内は騒音がすごいと聞いていたが、私はすぐに寝てしまった。10時50分、海上自衛隊硫黄島航空基地に着陸。
ちょうど、今夏の酷暑が一気に低温化した時期に重なっていたためか、予想していような高温ではなかった。とはいえ、南洋特有の強い日差しが肌に熱い。手元の温度計によると、気温は摂氏33度だ。硫黄島駐屯の自衛官によると、現在、海水を真水に変える装置が故障中とのことで、「スコールが命の水」という。
直ちに厚生館と呼ばれる施設へ移動し、昼食をいただいた。また、この後の戦跡巡拝は、空自および海自の方々が案内役を務めてくださった。彼らの言葉の端はしに、戦没者への敬意の念を感じた。
彼らは本来の仕事のほか、島内の藪の草刈も行なうそうだ。草刈というのは埃がすごいので、どうしても痰や唾が出る。しかし自衛隊では、「絶対に地面に吐かない」という。「すべて飲み込みます。野外では小用も厳禁です。英霊に対して失礼だからです」(案内の自衛官)。
昼食後、3班に分かれ、まずは天山にある硫黄島戦没者の碑へ向かう。マイクロバスが天山に着くと、前日、知己を得ていた長野県上田市の岩下明さん(73)が、慰霊碑とは反対の方向へ歩き、道から少し外れた場所にある石碑の前に水を供え、一心に手を合わせていた。照りつける日差しが、背広の背と頭部を焦がしている。
碑には「独機一・二中隊戦斗地域」とある。碑の下部には小さな仏像と線香立て。
「兵士がどこで死んだのか実際には分からないんです。そこで、壕のあった場所や戦闘地域が分かっている場合は、そこに碑を建てました」(岩下さん)。手元の資料によれば、ここは陸軍混成第二旅団独立機関銃第一大隊第二中隊戦闘地域とある。ここが、岩下さんの父親が戦った場所なのだ。
他の遺族によると、地下壕がジャングルの中にある場合、サソリや有毒のアリ、スズメバチなどの脅威があって、壕の場所へ近づけない。その場合は、壕に最も近い道路沿いに道標が建立されたという。遺族たちは、これらの碑や道標を目印に参拝し、手を合わせる。だから、これらの碑は、彼らにとっては父の墓標に相当するのだろう。
◆故郷の水を供える遺族たち
天山の硫黄島戦没者の碑は、平成6年に、現職首相らに先立ち、両陛下が慰霊参拝をされた場所でもある(季刊誌『皇室』67号・扶桑社刊参照)。両陛下の参拝後、いわゆる霊現象が沈静化したという話もあるそうだ。
慰霊祭ののちに、参加者たちは慰霊碑へ水を掛けた。一般参加者は、コンビニ等で購入した水を直接掛けるほか、自衛隊が用意した手桶から柄杓を使って水を注いだ。雨水以外に真水がほとんどなく、水に渇望したまま命を絶った兵士たちへのせめてもの供養だ。
遺族たちは、おのおの水筒やペットボトルを取り出し、水を手向けていた。彼らは、父や祖父の出身地の水を持参しているのだ。
鹿児島県枕崎市から参加した桑原茂樹さん(70)も故郷の水を持参した。
父である長谷(ながたに)太吉さんは硫黄島で戦死。陸軍第一〇九師団歩兵第一四五聯隊第二大隊で中隊を指揮していたことは分かっている。長谷中尉らは勇猛で知られた薩摩の軍人集団。それゆえ、硫黄島守備隊最高指揮官で、日米から名将と称えられる栗林忠道陸軍大将の側近として将軍を守った。
桑原さんに、もちろん、父の直接の記憶はない。今年8月11日の南日本新聞の記事で桑原さんは、島の風景を見ていると「父も同じ景色を見ていたのかと考えさせられる。父に少しでも近づきたい」と述べている。今回で7回目の訪島である。
桑原さんは、白い紙の巻かれたペットボトルを手にしていた。そこには、
故 長野 定春 様
硫黄島は水が不足して皆さん
たいへん苦労されたと聞いて
います。
このたび、父上様が戦死され
た硫黄島に、枕崎市遺族会長
の桑原茂樹様が訪問されるこ
とになりました。
この機会に枕崎の水を届けて
もらうことにしました。
喉を潤してください。
弟 長野 寿夫
長野定春さんも、枕崎の出身である。その弟さんから、桑原さんは故郷の水を託されたのだ。戦死者たちにとって、故郷の水は甘露に違いない。とても深い慰霊の行為ではないだろうか。
慰霊碑の横には、仏式の供養施設がいくつか並んでいた。この島に来る者は、かならずこの天山で手を合わせるのが不文律となっているそうだ。
◆「英霊」とはだれか
その後、戦跡めぐりをした。時間の関係で、マイクロバスを下車できたのは、医務課壕と擂鉢山山頂、米軍が上陸した南海岸付近である。
道中の車内で、案内の自衛官がこんなことを言っていた。
「ある夜更け、聴いたこともないような兵隊ラッパの音がしたんです。それであわてて着替えて基地へ行くと、誰もいない。そうしたら、分かりました。その日は、戦闘が始まった2月19日でした。このようなことは、よく起こります」
医務課壕は、非常に暑かった。壕の内部に入るにつれて、地中からの熱い水蒸気が立ちこめ、眼鏡が曇ってしまい、視界が悪くなった。まるでサウナである。私はスーツの上下を着ていたため、全身、汗をびっしょりになった。
ここに傷病兵が寝ていたという。平成を生きる自分には、健康体でも一日ともたない気がした。この壕では54柱の遺骨が見つかっている。
医務課壕は、遺族に言わせると、「観光地」に等しいそうだ。医務課だけに、外部との通行が困難にならないように、地下深くに掘られていないからだ。他の兵科の壕はもっと深く、もっと暑いという。
基地へ戻り、朝と同じ輸送機に乗り込み、15時20分、我々は硫黄島を後にした。
18時00分、入間基地着陸。入間市民会館へ移動し、夕食。その後、意見交換会と解団式が行なわれ、硫黄島訪島事業は終了した。
*…*…*…*
遺族の岩下さんが言っていたことだが、戦争というものには多面性があり、一面だけを見ては間違える、という。
その通りだと思う。
訪島から何日間が過ぎ、忙しい日々の中でも、硫黄島のことを思い出す。そして、例の胃の違和感を覚える。これは、なんなのだろうか。
いま、一番に思い出すのは、米軍が上陸した南海岸・二ッ根浜での経験である。
我々はマイクロバスを降り、海側へ少し進み、日本軍のトーチカ跡を訪れた。海岸は遠く、近づく時間がなかった。そこには、70年間、潮風に晒され続け、激しく腐食しつつも、いまなお立ち続ける25粍単装機銃があり、その砲身に触れてみた。錆付いてゴツゴツとした70年前の殺人兵器は、島の気温よりもわずかに、ひんやりとしていた。そして今、自分の足が乗っている場所にも、日米どちらかの将兵の血が沁みこんでいるのだろうと想像した。日本兵ばかりか、米国兵もたくさん死んだ場所で、若い参加者たちが笑っている。秘境ツアーかなにかと勘違いしているのだろうか。
以前、一度だけ「戦場取材」をしたことがあるが、そのときに感じた迫撃砲や自動小銃の衝撃波と爆音が、突如、身体に蘇ってきた。
海からの風が、肌に、ねっとりと熱い。胃がねじれる。
戦争という、もっとも暴力的な背景を持つ、土と血にまみれた「死」への恐怖が胃を押し上げるのか。いや、違う。もちろん、それもある。だが、違う。
日本軍の死者は2万0129人。米軍は死者は6821人・戦傷者2万1865人という想像に絶する激戦だった。彼らはなぜ戦ったのか。なぜ、戦わねばならなかったのか。なぜ傷つき、なぜ死ななければならなかったのか。国を背負い、家族を守った者。嫌々ながら戦場へ送られた者もいただろう。しかし、みな、命を掛けたのだ。そのことへ強く思いを馳せたとき、私の中で「英霊」とは、日米両国の将兵の死者として感じられた。これが、紛れもない事実だった。
一般的には、英霊とは祖国を守るために殉じた日本兵、さらには軍属を指すのだろう。だが、硫黄島を訪れ、硫黄臭の混じる島の空気を吸い、かつての激戦を物語る兵器の残骸に触れ、日米両国の将兵の血を吸った熱帯性の植生を眺め、いまだに1万を超える日本人将兵の遺骨が眠る島の地面を踏みしめたあとで強く感じるのは、戦闘の悲劇と苛烈さ、そして命のはかなさと戦争の愚かさだった。英雄的に戦地に散った者だけが英雄ではない。ここで亡くなったすべての人が、そう称えられるべきだ。
*…*…*…*
今回は、わずか4時間の滞在時間だった。駆け足でまわった戦跡は、すべてが忘れ難いものだった。最後に立ち寄ったのは、上述の南海岸・二ッ根浜付近である。ここに、日米再会記念碑がある。昭和60年、この場所で日米の生存者が再会し、抱擁しあって涙を流したという。
英霊を、日本兵だけに限定するような感情に囚われたままでは、両国の元兵士が流した涙は、理解できぬのではないか。
米国のある元兵士は、なんども硫黄島を訪れ、こう語ったという。「硫黄島には、勝利を祝うため行っているのではない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えるためだ」
硫黄島を世界的に有名にしたのは、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』という連作映画だ。彼はなぜ、日米双方の視点から、二つの映画を製作したのだろうか。彼自身の言葉を引用しよう。
「私が観て育った戦争映画の多くは、どちらかが正義で、どちらかが悪だと描いていました。しかし、人生も戦争も、そういうものではないのです。(中略)どちらの側であっても、戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在です」(クリント・イーストウッド/2作品のオフィシャルサイトより抜粋)
もちろん、感想というものは十人十色で、訪島者によって違いはあるだろう。しかし、70年前の英霊たちの命を掛けた貴い行動に対して、今に生きる我々が今の感覚であれこれ言うのは、冒涜ではないだろうか。
入間基地からの空路の往復5時間20分を考えれば、日帰りの慰霊巡拝での滞在時間が短いのは仕方がない。他にも訪れたいところは多く、手を合わせるべき場所は随処にある。
解団式のとき、ある遺族が「今回は予習です。これからもっと知ればいい」と言っていた。私がもう一度訪れることがあるのかは現時点では分からないが、平成27年8月26日に硫黄島を訪れたときに身体で感じた感覚は、しばらくは忘れられないだろう。
今後、どう「復習」していけばよいのか。いまもまだ、押し上げられたままの胃の違和感を抱えながら、考えている。
(ライター・太田宏人)