平成28年8月11日(木)~12日(金)にわたり、当財団が共催する「硫黄島訪島事業」が開催され、硫黄島戦没者遺族関係者及び青少年の55人が渡島し、慰霊巡拝を行いました。
◇平成28年度・硫黄島訪島事業報告◇
硫黄島は、自衛隊基地となっており、遺骨収集など特別に許可された者以外の一般人の上陸はできない。昨年から始まった訪島事業は、当財団では硫黄島戦の戦没遺族関係者を募集し実施している。
同事業の1日目は、埼玉県入間市内のホテルに集合後、結団式と勉強会をおこなった。
勉強会では、硫黄島などで遺骨収集に取り組む戦後問題ジャーナリストの佐波優子氏が「硫黄島での遺骨収集について」と題して講演。平成21年から硫黄島での遺骨収集に参加した経緯から、地盤が緩く崩落の危険性があるために手つかずの壕が多いこと、壕内部では地熱の蒸気により温度は80℃に達するため、指先の骨など細かい部分は溶けて残っていないものもあり、困難を極める作業を強いられるなど、同島での遺骨収集の現状を解説した。
翌日、航空自衛隊のバスでホテルから入間基地へ。C-130H輸送機に搭乗。8時10分に同基地を離陸。飛行すること2時間半、自衛隊機の小窓から初めて見た硫黄島は美しい島であったが、その浅瀬にはいまだ錆びた船が何隻も点在しており、これから上陸する島が激戦地であったことを再認識した。
基地内にある資料室には、常に身に着けていたであろう小刀や陶器製の手榴弾、濾水器などが展示してあり、戦時中の生活を垣間見ることが出来た。
慰霊祭を催行する天山の硫黄島戦没者の碑に自衛隊のバスで移動する。同碑は小高い丘の上に位置し太平洋を望むことができる。その遥か水平線の先には、母国日本がある。
同碑の前で行われた慰霊祭では、酒、果物、菓子、日本茶などの他にも、今回訪島の叶わなかった方から英霊への手紙もお供えされた。ご遺族が故郷の水を持参し、各々慰霊碑に献水する姿が印象的であった。慰霊祭を通して英霊に感謝の誠を捧げ、平和の世を築くことを参加者全員が誓った。
その後、島内を視察した。栗林中将を中心に陸軍の作戦指揮がとられていたという兵団司令部壕は、入り口がとても狭く、当時の過酷な戦況を垣間見ることができた。海軍医務科壕は他の壕に比べかなり入口は広く、観音像が戦時中から現在まで安置されている。中に入ると道の両側には鍋や酒瓶、やかん等が並んでおり、昨日まで人がいたような雰囲気である。壕内に2か所、丸い吹き抜けがあり、それが空気口となっているが、地熱のため壕に入ってすぐの場所にいてもかなり息苦しい。壕の行き止まりに至っては温度が70℃あるという。また、外から見ると、銃弾の跡が無数にあり米軍からの集中攻撃にあったことが分かる。
次に、擂鉢山水平砲台へ向かう。この砲台は元々頑丈なトーチカ(鉄筋コンクリートで作られた防御陣地)で囲まれていたが艦砲射撃により破壊され、米軍上陸海岸を向いたまま野ざらしになっている。砲台周辺だけでも200名が埋葬されており、弾丸を抱えたままの遺骨もあったという話を案内していただいた自衛官が語ってくれた。
擂鉢山の頂上に登ると、教科書で見た硫黄島米軍上陸海岸の景色が眼前に広がっていた。頂上には第一・第二御盾特別攻撃隊慰霊碑、日本軍将兵顕彰碑、米軍上陸記念碑が海を背に並んでおり、特に日本軍将兵碑には全国から招集された、という意味を込めて日本各地の石がはめ込まれている。
南海岸(米軍上陸海岸)への移動途中、自衛官が旧島民は島に自生する青パパイヤを日常的に食べていたこと、地熱が高すぎ草一つ生えない場所ではその熱を利用して蒸し野菜など作っていたことを語っていた。
南海岸の足元には硫黄島しか採取出来ない鶉(うずら)石が無数にあった。そしてここにも小さなトーチカがあり、その中には溶けて銃口が大きく曲がった機関銃が残されていた。
移動途中、遺族がバスを止めてほしいと懇願され、父が亡くなったであろう方角に献水し、頭を深々と下げる姿は、戦争と亡き父への追憶と平和を懇願する姿があった。その後自衛隊機で硫黄島を離陸した時も、雲で見えなくなるまでじっと島を見つめ続けるご遺族の姿も今なお脳裏から離れない。
平成生まれの私たちの祖父母の年代は、戦争を体験し尚且つ今もご存命という方が多い。その方々から当時のお話を伺い、今回の訪島事業のように自身の目で見て感じたことを記憶し伝えることがこの世代に出来ることの一つであると思う。
(日本文化興隆財団 田部景子)