令和元年9月10日(火)から11日(水)にわたり、当財団が共催する「硫黄島訪島事業」が開催され、当財団からは硫黄島戦没者遺族関係者28人が渡島し、慰霊巡拝を行いました。
以下は、当財団の記録として同行した(株)扶桑社「皇室編集部」編集長・伊豆野誠氏のレポートです。
●手向(たむ)けられた石
渡島して簡単に昼食を済ませた後、真っ先に向かったのは「硫黄島戦没者の碑(天山(てんざん)慰霊碑)」だった。この慰霊碑は昭和46年(1971)に国によって建てられたものである。私は、遺族の一人である三浦孝治(こうじ)さんと、その慰霊祭の会場へと向かっていた。三浦さんは今回の参加者の中で86歳(当時)の最高齢だが、外見からはとてもそうは見えない。
三浦さんは時計を見て、慰霊祭までに時間があることを確認すると、その脇へと足を向けた。高台にあるその場所からは海が見渡せる。そこには、民間の人たちが建てた大小さまざまな慰霊碑が建てられていた。その中に、三浦さんのお父様である末治(すえはる)氏のために兄弟5人で建てた「防人の碑」があった。この島のどこでお父様が亡くなられたのかは分からない。当然、遺骨もない。三浦さんは言う。
「ここに建てたことに理由はありません。ただ、お参りに便利ですし。慰霊塔の近くにあって、他の人たちからもお参りを受けられますから」
同行させてもらうと、三浦さんは封筒から何かを取り出して供えた。石のかけらだった。
「釣りが好きでしたから…」
樺太(からふと)の川で拾ってきた石だった。父親との数少ない思い出の地である樺太は、今では帰ることがかなわない。三浦さんの後ろで手を合わせる。慰霊塔周辺には、訪島事業に参加した人たちが集まってきていたが、この辺りにはいない。そこには暑い日差しが降り注ぎ、遙かに青い海が音もなく広がっていた。
●「赤紙」
三浦さんとお会いしたのは、この日の朝、入間基地で硫黄島に向かう自衛隊機への搭乗を待っている時のことだった。当財団の事務局長が三浦さんと話しているのを見つけて、私も会話に加わり質問を始めた。すると、帰る時に返すことを条件に三浦さんはご自身の半生を書いた手記を手渡された。
搭乗した「C2」は、輸送機というだけあって中は機能一辺倒のがらんどうの造りである。横一列に並んだ座席に座り頑丈なシートベルトで体を固定した。騒音に対処するため持参を勧められた耳栓を着け、硫黄島までの約2時間、私は渡された手記へと目を走らせた。
三浦さんは、父・末治と母・トミの二男として北海道稚内宗谷(わっかないそうや)で生まれた。父親がこの地の海軍無線電信所に配属されていた時である。三浦さんが2歳の時、父親が海軍を除隊になると、一家は樺太へと渡った。宗谷海峡を隔てて目と鼻の先である。南樺太は天然資源の開発により景気が良かった。父親は炭鉱などを経て、樺太庁中央試験所に電気技術者として勤務することになり、一家は豊北(とよきた)村小沼(こぬま)を「安住の地」として生活を始めた。「緑ゆたかで綺麗な川の流れている小さな寒村」で、父親に自転車の乗り方を教えてもらったことなどが手記には描かれている。
だが、平穏な生活は長くは続かなかった。「もうすぐ四十歳になるから、自分に赤紙は来ないだろう」と言っていた父親に、再び、召集令状が来たのだ。三浦さんが小学校2年生の時で、同年12月には大東亜戦争が勃発した。2年半後の夏、帰省休暇が許されて父親が帰ってきた。上下純白の海軍士官の制服は山間部のこの町には珍しく、国民学校に挨拶に来た父親の「スマートな」姿に全校生徒が注目した。三浦さんは誇らしかった。しかし、至福の時はあっという間に過ぎ、父親は出征していった。任地から送られてきた手紙に場所の記載はなかったが、同封されていた写真には大きな実をつけた南方特有のアダンの木が写っていた。
●心中
その後の戦局は言うまでもない。昭和20年8月9日、樺太ではソ連軍が国境線を越えて侵攻。母親と子供だけの三浦さん一家は外地に置き去りにされてしまった。「女子供だけでは危険」と知人の厚意によって官舎に同居させてもらったが、ソ連軍の駐留部隊は獣以下だった。ホールドアップを強制されポケットの中の万年筆を盗られたのは序の口で、夜中に突然、家に乱入され、酒や「娘」を要望されたこともあった。その時は、知人と母の冷静な対応で難を免れ、ある時は、母親と家路を急ぐ最中に、突然、殴られ、たまたまそこが日本人の住宅玄関前で大声を出して助けを呼んだため助かった。後年、母親は「子供五人と心中を図る方法を考える毎日だった」とポツリと漏らしたことがあったという。
それでも、敗戦後しばらくして状況は安定し学校も再開された。しかし、人様に世話になりながら登校できる状況ではない。通学する同級生に隠れるようにして、三浦さんは住み込みの仕事などに従事した。そうこうするうち、戦後1年を過ぎた昭和21年末頃に日本への「引き揚げ」が始まった。母子家庭、病弱者の家族などを優先するといわれたが、最初に引き揚げていったのは資産家や官公庁関係者だった。三浦家に許可が下りたのは昭和22年の春。しかし、この時は三浦さんが住み込みのニシン漁に従事していたため断念。それはタコ部屋同然の苛酷なものだったが、村役場の徴用によるものだったからだ。
2度目の引き揚げ許可が下りたのはその年の7月。14歳の三浦さんはその時のことをこう記している。
「船が岸壁を離れて動き出すと、夢に描いていた日本にやっと帰れる嬉しさより、これから一家の暮らしはどうなるかの不安が頭を過ぎり、少年期を過ごした思い出多い故郷の地が無念にも外国に奪われ他国の領土となり、友達とも離れ離れになって島を去らなければならない自分の不運と寂しさが胸中に沸き起こってまいりました。
沖合いに出ても、二度と再び戻ることが出来ないであろう故郷の山並みを、瞼にやきつけておきたいという想いで、流れる涙を拭わず島影が視界から消えるまで甲板に佇んでおりました」
●一心に
それでも、期待していることが家族全員にあった。父親が自分たちを迎えにきているかもしれない、ということだった。しかし、函館で待っていたのは戦死公報だった。
「昭和二十年三月十七日。海軍少尉、三浦末治。硫黄島に於いて戦死。」
樺太への連絡が不能になり知らせることができなかったのだという。
悲嘆にくれていると、引き揚げ者名簿を見た親族が迎えに来てくれていた。中学に通わなければならない三浦さんだったが、仕事に出ることを選んだ。初めは木工場に勤めたが、将来のことを考えた親族のツテで国鉄・札幌鉄道教習所の分教所で給仕として働くことになった。しかし、1年後に合理化のため仕事はなくなる。それでも、居住していた恵庭(えにわ)村の商業協同組合に就職でき、米穀の配給係としてきつい肉体労働に励んだが、そこも3年余りで解散に。警察予備隊が発足し海上警備官を募集していたので、父の仕事を継ぐべく応募しようとしたが母親が大反対。しかし、義務教育も受けていない三浦さんを採用するところはなかなかない。途方に暮れていたところ、恵庭村に初めて金融機関(北海道信用組合)が出店することになった。地域と繫がりのある元商業組合の事務職が採用されることになり、三浦さんも事務職ではなかったが採用された。算盤の腕前が認められたのだ。国鉄で働いていた時、先輩のものを借りて仕事の合間に練習したのが算盤を始めるきっかけだった。
ここでも一心に働いた。32歳で支店長になり、その後も千歳や札幌市内の勤務を経て60歳の定年を迎え、行政書士・社会保険労務士事務所を開業。地域に貢献するため法務省人権擁護委員、恵庭軟式野球連盟会長などの活動を続けた。奥様は6年前に亡くなったが、現在、息子さんは神奈川県で会社員として働いていて、娘さんは北海道で結婚し子供を育てているという。
●樺太再訪
三浦さんにとって硫黄島への渡島は今回で29回目だ。62歳の時、戦没者慰霊巡拝団の一人として念願の渡島を果たし、以来、遺骨収集活動などに従事してきた。
この「訪島事業」ではマイクロバスに分乗し自衛隊員の案内によって戦跡を回る。砲身に砲弾がめりこんだまま錆びついた「大阪山砲台」や、地下に続く「海軍医務科壕」「兵団司令部壕」など、そこには激しい戦闘の片鱗が生々しく残っている。今も活動中の火山である硫黄島は、地下に入ると一瞬で眼鏡が曇る。地下に深く入るほど暑さは募るのだ。バスで隣に座らせてもらった三浦さんが言う。
「遺骨収集では、不発弾が爆発したり、ガスが噴出してきたり、トーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地)などが崩れることもあります。でも、たいした怪我や事故にはなりませんでした。私はいつも、お迎えに来ましたよ、どこにいらっしゃるか分かるように知らせてください、という気持ちで回ってました」
硫黄島では今も1万2千柱以上の遺骨が収拾されていない。その妨げともなっているのが島一面に繁茂し強く根を張っているギンネムの木という。これは、占領後、米軍がおびただしい遺体を窪地などに埋め、死臭を消すために、その種を空中散布したものともいわれている。
島内には慰霊碑が80か所に立っている。それは旧日本軍の各部隊があったところに遺族会が供えたものだ。バスが飛行場の周りを走っている時に、その標柱(ひょうちゅう)が立っているのを教えてくれ、三浦さんはバスの中から手を合わせている。
「ここで死んだのかどうかは分からないんですけどね」
そこは父親が所属した「南方諸島海軍航空隊」があったところなのだ。自衛隊員と三浦さんは顔なじみだ。三浦さんと私が話す声が聞こえていたのだろう、その傍らには観音様の像があり、それは三浦さんが供えられたものだと同乗の自衛隊員が付け加えた。
三浦さんは硫黄島を初めて訪れた翌年、遺骨収集事業に応募し樺太も訪れた。48年ぶりのことだった。住んでいた小沼(現ノボアレクサンドロフスク)の風景は変わらぬ美しさだったという。以後、毎年のように収集事業や慰霊祭などで樺太に渡り、中学の同窓会や元住民の親睦会などにも参加してきた。だが、高齢化は進むばかりだ。同窓会は既に解散となった。
●父の骨
三浦さんは初めて硫黄島を訪れた時のことを、手記にこう記している。
「艦砲射撃で形が変わってしまったといわれる摺鉢山(すりばちやま)に登り、半世紀前に歴史に残る死闘が繰り広げられた戦場を一望して、護国の鬼となって闘ったご英霊の御蔭で、残された私達が平和を享受していることに感謝をして参りました。
同島は、戦後半世紀を過ぎようとしているのに、未だに戦後処理が終わっておらず、島内に約十八キロも張り巡らされているという地下壕内には、未だ一万二千名以上の兵士が戦闘で斃れた儘の姿で土砂に埋もれていて、日本政府による遺骨収集活動が行なわれていることを知りました。
孝治(筆者注/三浦さん)は、早速、自分の手で父の骨を捜すことが出来るかもしれない遺骨収集の活動に参加をさせてもらうため、日本遺族会を通じて日本政府派遣戦没者遺骨収集団員に加わることになりました。
平成七年以後十年余、孝治は奉仕活動として、先の大戦で父と同じく国難に殉じ散華されたご英霊のご遺骨を遺家族、故郷、祖国に、そして千鳥ヶ淵の戦没者墓苑にお迎えするための活動を始めました」
以来、平成7年から令和元年6月までに、三浦さんが日本政府派遣戦没者遺骨収集活動として硫黄島を訪れたのは26回、樺太の北緯50度線(以前の国境線)地域には5回、その他シベリアなどが3回。それとは別に、慰霊や遺骨収集などのために樺太を訪れたのが21回、硫黄島が2回、ペリリュー島などが5回に及んでいる。
入間基地への帰路、自衛隊機は硫黄島の周りを旋回してくれた。上空から見る硫黄島は、どこまでも青い海の中に、毎年隆起が広がる茶色い砂浜を縁取りとして、緑色に光って浮かんでいた。