令和3年11月16日(火)から17日(水)にわたり、当財団が公益社団法人日本青年会議所と共催する「硫黄島訪島事業」が開催され、当財団からは硫黄島戦没者遺族関係者5名が渡島し、慰霊巡拝をおこないました。
以下は、当財団の事務局として同行した当財団理事の髙清水有子氏のレポートです。
「感謝、感謝」の気持ち、只々それに尽きます。平和は当たり前な事ではない、有難い事。平和は先人の尊い志と犠牲の上にある事を、肝に銘じた貴重な2日間でした。
コロナ禍により「硫黄島訪島事業」は2年ぶりの開催となりましたが、感染拡大により更なる延期、中止の可能性もありました。例年の半数の参加者に絞る、手指の消毒やマスク着用で感染防止対策の徹底、訪島直前の抗原検査や体温測定等、これまでの経験には無かった準備や対策に奔走された事務局スタッフのご苦労にも敬意を抱きます。
平成の御代の天皇・皇后両陛下が、御自らのご意向によって『慰霊の旅』を貫きました。
戦後50年、60年、70年の節目の年には先の大戦でとりわけ戦禍の激しかった土地に思いを寄せられて行幸啓されました。「慰霊の旅」の始まりの地、それが平成6年2月12日の小笠原諸島硫黄島です。小笠原諸島が日本に復帰して25周年の翌年の事でした。
上皇陛下 硫黄島二首(平成6年)
精根を込め戦ひし人未(いま)だ
地下に眠りて島は悲しき
戦火に焼かれし島に五十年(いそとせ)も
主なき蓖麻(ひま)は生ひ茂りゐぬ
上皇后陛下 慰霊碑に詣づ(平成6年)
慰霊地は今安らかに水をたたふ
如何(いか)ばかり君ら水を欲(ほ)りけむ
当時私は、日本テレビ皇室プロジェクト所属で皇室特番や情報番組のリポーターとして、日々の皇室ニュースはじめ、節目の機会で数々の行事や祭祀の解説を担当していました。その中でも「慰霊の旅」は私自身にとっても大事な取材分野のひとつで、両陛下はじめ皇族方の同行取材を担当していました。ただ硫黄島取材は産休中のため、パラオ取材(戦後70年)は体調不良のために叶いませんでした。パラオはパスポートを取得して状況が整えばこれからでも渡航することは可能です。しかし硫黄島は簡単に訪島が出来ない土地ですので半ば諦めていた矢先、この度、日本文化興隆財団の事業担当として参加するご縁に恵まれました。訪島前日、事務局スタッフと共に靖國神社にて昇殿参拝に臨み、心身ともに健やかな心持で訪島に備えました。その際、参集殿で懇意にしている高貴な僧侶の皆様方と、3年ぶりにお目にかかる偶然に接し、ご英霊のお導きのように感じられ益々訪島への気持ちが高まりました。
硫黄島訪島当日、入間基地から自衛隊の輸送機に搭乗して運んで頂きました。天候にも恵まれ飛行中に大きな揺れやトラブルもなく約2時間で到着しました。離陸着陸もさすが日々訓練をしている自衛隊パイロットの高度な技術を身をもって感じました。
順番にタラップを降りて硫黄島航空基地に降り立ちました。かすかに硫黄の匂いを伴う熱々の強風、真夏を思わせる強烈な日差し、視界をさえぎるものがない長い滑走路、南国の景色に欠かせないフェニックスの木が同じ方向に少し傾き、空高く伸びていない状態からも、厳しい自然環境である事が伝わります。また硫黄混じりの湿った海風の熱風で、髪の毛がゴワゴワした感じになりました。
自衛隊基地内の厚生館という施設で昼食を取り、いよいよマイクロバスで島内各所に出発です。
まずは慰霊祭斎行のため、硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)へ。最終戦闘がおこなわれた天山壕の上に日本本土に向かって建てられています。白木の箱を布で包んだ形の石碑の上は天窓が施され、御霊が日光と雨水の恵みが受けられます。平成の天皇陛下が白菊を献花され柄杓で水を手向けられた場所です。参加者全員が心をあわせて慰霊祭に参列して今ある平和への感謝の誠を捧げる厳かなひとときでした。不思議な事に先程までの強風は止み、献花した花々が吹き飛ばされること無く咲みをたたえているように見えました。参列者は各々持参した水を石碑に注ぎかけ、この地に眠るご英霊に少しでも潤いが届くように心から祈念しました。
慰霊祭後に各所をご案内頂きました。硫黄が丘は、島のほぼ中央に位置して、硫黄を噴出している場所です。白い蒸気がモクモクと吹き出していました。その後、栗林忠道中将(のちに大将)が指揮を執っていた兵団司令部壕、傷病兵の治療のための医務科壕へ。自衛隊員の方が発電機で壕のなかに明かりを灯してくださり、医務科壕の中に入りました。生まれて初めての経験です。畏れ多さと怖さで緊張しました。全てのご遺骨が故郷に戻られていないことから、靴のまま壕内を歩くのが申し訳ない気がしました。内部に進むにつれて猛烈な地熱の高さに目眩がするほどで五分もいれば全身から汗が噴き出すような灼熱サウナ状況です。健康体でも体力を著しく消耗するような厳しい壕内に、若き日本兵たちは、仲間同士励まし合ってここに居たことを思うと、噴き出す汗に負けないほど涙が溢れていました。しかも飲み水がありません。そんな過酷な環境のなかで、我が国のために、故郷にいる大切な人のために、精根込めて戦ってくださったご英霊のことを、我々はしっかりと後世に伝えなくてはなりません。
摺鉢山は先の大戦で激しい戦禍の場所です。日本軍の拠点だったため、摺鉢山が陥落イコール、負けることを意味しています。マイクロバスで登山道のぎりぎりまで進み、そのあとは徒歩で摺鉢山の頂上に向かいました。今は穏やかな潮風とブルーの海原が輝く美しい風景が広がっています。米軍上陸海岸も静かに波の音が響いています。76年前の激戦が想像もできないほど綺麗です。しかし、その砂浜には現在も、錆びた弾丸が付着した石が生々しく残されていました。僅か長さ5センチほどの銃弾ですが、これらが無数にこの海岸を飛び交っていたことを想像するだけで、恐怖で鳥肌が立ちました。
当時の米軍の戦闘設備、環境は日本軍をはるかに超えた強靭な態勢です。記録によれば、米軍は上陸後、一週間以内に楽勝で占領できると考えていたそうです。しかし我が日本軍はその予想を遥かに超えて、なんと36日間もの激闘が繰り広げられたのです。心からの慰霊の気持ちで手を合わせました。
今回の硫黄島訪島では、5名のご遺族の方々とご一緒しましたのでご紹介します。
祖父が硫黄島で散華された山本さんは2回目の訪島です。前回は一昨年の日米合同慰霊祭参列でしたが、その時は摺鉢山に登山できなかったので、今回参加して本当に良かったと笑顔を見せてくれました。
ご英霊にとって孫、ひ孫にあたる藤島さん親子は初めての硫黄島です。お父さまは「母からは、祖父のことをたくさん話を聞いて予習して参りました。娘に一緒に行こうと誘ったら来てくれたんですよ」と。その娘さんは現在23歳の小学校教諭、2年生のクラスを担任しています。硫黄島で感じた事、学んだ多くの貴重な経験を子供達にお伝えするそうです。「伝えることが多すぎて悩みますが、子供達が楽しみにしているので頑張ります」と。このような先生が増えてくれたら日本の将来も安泰ですね。父娘の仲が良く、家族の絆が感じられました。このような家族だからこそ、素敵な大和撫子に成長されていることを実感しました。
西村さん兄弟の大叔父がここ硫黄島で散華されました。九州大学の学生、兄は修士課程1年の24歳で物理学を専攻、弟も九州大学在学の20歳で経済学部、華道小原流を嗜む華道男子です。地元の護國神社でこの度の事業のチラシを見て関心を抱き、ご両親に相談したところ快く送り出してくれたそうです。島内研修の全ての場所でとても真面目に、一所懸命に、誠実に行動されていました。これからの我が国を担う世代にも、西村兄弟のような日本男児が存在していることは、未来の日本の希望の光です。いろいろあるけれど、まだまだ日本も捨てたもんじゃありません!
私自身にとっても人生観が変わるような忘れがたい貴重な経験を通して、私の為すべき役目をしっかりと果たして参ります。より多くの幅広い年代に伝えていくことです。帰島して入間基地内で解団式を終え解散後、街の何気ない風景が有難く愛おしい。いつも通りに電車に乗って帰宅の道中、口論しているカップル、駄々をこねている男の子、車中読書をしている少女、優先席で足を組みスマホに夢中の若者、トートバッグいっぱいに食材を運んでいる主婦など、全ての平和が新鮮に目に映りました。改札口で出迎えてくれた夫の姿にさえ珍しく感謝しました。
現在ある我々が享受している平和は、当たり前に存在するものではない事を伝え継いでいく、それが今の時代を生かされている者の義務であり、将来の子孫たちへの責任だと確信しています。