令和5年8月7日・8日と硫黄島訪島事業が開催されました。
当日の模様を当財団の田尾理事より報告がありましたので掲載いたします。
硫黄島での慰霊行事 -悲しみを後世の力に-
公益財団法人日本文化興隆財団理事 田尾憲男
毎年、公益財団法人日本文化興隆財団は、公益社団法人日本青年会議所関東地区協議会と共催の形で、内閣府(令和5年より新たに発足のこども家庭庁)と厚生労働省の後援を得て硫黄島訪島事業をおこなってきたが、今年は真夏の8月7日から8日にかけて実施した。これまでコロナ禍で一時中止や規模縮小もあったが、本年度は85人もの参加者を得て無事遂行することができた。
共催している日本青年会議所関東地区協議会は、次代を担う青少年を対象に、日本人としてのアイデンティティの確立を目指し、戦跡を訪ねて当時の悲惨な状況を知ることにより、「祖国のため、自らの家族のために犠牲となった方々に対する感謝と敬意を風化させず、平和の大切さを次の世代に紡いでいく」との誠に殊勝な目的をもって事業を実施していて、たいへん素晴らしい。
一方、当財団の方は全國護國神社會と一般社団法人日本遺族会の協力のもと、硫黄島での戦歿者の御遺族とその血縁者、とくに中学生以上の青少年を優先対象として参加者を募集し、島に建つ「硫黄島戦没者の碑」において訪島団全員の参列のもと慰霊行事を執りおこなうことを大事な目的として実施してきた。
何をどう伝えるか
今年は山形、神奈川、三重、奈良の4県から、戦歿者と血縁の関係者子孫の方々が応募され、財団からは私が理事として同行することになったので報告させていただく。
今回参加された方々の目的・動機は、何よりも戦死した祖父や大叔父たちが、どのような状況下で最期を遂げたのか、それを知り、確かめたいとの思いだった。訪島後に心境や思いを聞いてみると、「やはり行ってよかった」というのが皆の感想で、安堵と感謝の気持ちが伝わってきた。さらに「身内を含め、これから戦死者に対してどう向き合っていったらよいのか」との自問や、また「この貴重な体験を自分以外の人たちにどのように伝えていったらよいのか」と、いろいろと考えている方もいた。
このような問題意識をもたれたのはありがたいことである。しかしこれは参加者個人や家族にとってだけでなく、日本人が国家共同体として、国民全体でこれからも真剣に考えていかなければならない大事な課題でもあるのだ。今回我々の父祖たちが戦った激戦の地を訪ね、今も残る戦いの跡や遺品を見つめ、あまたの戦歿兵士の遺骨がいまも地下に埋もれたままの現場に身を置いてみて、そこから戦歿者の慰霊と顕彰を考えることの大切さを、改めて感じさせられた次第である。
悲しき島・硫黄島
硫黄島は、まことに悲しい島である。大東亜戦争末期の昭和20年2月19日から3月26日にかけての36日間、わずか23平方キロの島全体が戦場と化した。島はいまも硫黄を含んだ蒸気の噴出が見られる火山島で、飲み水といえば天からの雨水を溜めたものしかなく、食糧や武器弾薬の補給も困難な状況に置かれていた。全国各地の部隊から送り込まれた約21,000人の陸海軍守備隊将兵は、ほとんど生きて家族のもとに帰れる望みのないなか、わずかばかりの水と乏しい食糧で耐えながら、熱い地下壕での生活と戦闘を余儀なくされていたのである。
小笠原兵団長として守備隊を指揮した栗林忠道中将は、硫黄島では水際作戦をあきらめ、島内に18キロに及ぶ地下壕を建設し、敵を島に上陸させて地上でのゲリラ作戦を敢行した。しかし61,000人の圧倒的兵力の米軍にはかなわず、将兵のほとんどは戦死あるいは自決し、今もその半数に及ぶ遺骨が島の地下に眠ったままである。
国ノ為重キ努ヲ果シ得デ矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ
栗林中将が残した痛恨の遺詠は、実に悲壮感が漂っていて悲しい。
平成6年の2月、硫黄島に行幸啓された当時の天皇・皇后両陛下もまた、深い悲しみの御心を寄せておられる。
御製
精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
御歌
銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき
かくも苛酷な戦場で、勇戦敢闘して、命短かく散っていった最後の帝国陸海軍将兵たちが島に残した「悲しみ」は、後の世にも我々が伝えていかねばならない。大きな悲しみは、必ず次の世代の大きな力となって甦っていくものだ。そして国の護りの礎となっていく。
ますらをの悲しきいのちつみ重ねつみ重ねまもる大和島根を
三井甲之
戦跡巡りと慰霊行事
硫黄島は、戦前は千人以上の島民が暮らしていたが、戦後は米軍の占領が23年間も続き、日本に返還されて東京都小笠原村に帰属したのは昭和43年だった。返還後は島全体が自衛隊の基地となっており、一般人の渡島は厳しく制限されている。今回我々は、自衛隊の全面的協力により、大型輸送機C2に搭乗して埼玉県の入間基地を出発し、約2時間で硫黄島に到着した。
島では、海上自衛隊手配の3台のマイクロバスに分乗し、隊員の案内で、今も発掘作業が続けられている遺骨収集現場を見学した後、米海兵隊上陸地点の南海岸、大量の砲弾で変容した摺鉢山、大阪山砲台、海軍医務科壕、兵団司令部壕跡などを巡った。とくに南西端に位置する海抜170メートルの激戦地、摺鉢山の山頂から眺めた太平洋の大海原に浮かぶ硫黄島が、あまりに小さく見えたのが悲しく心に残った。
訪島団全員による慰霊行事は、硫黄島戦最後の拠点となった天山壕跡に国が建てた、遺骨箱を形どったという長方形の石碑の前で執りおこなわれた。白菊の献花とともに、戦歿将兵の出身地の水を持参して碑に注ぐ人が何人もいたのが特別印象に残った。
将兵は護国の英霊に
硫黄島戦は、その後に続く沖縄戦とともに、日本国土での最初の島嶼戦で犠牲も大きかったが、それだけに米軍を震撼させた。日本軍の3倍の61,000人の大軍を投入して5日で制圧する作戦が、日本軍の死に物狂いの戦いにより、36日間も要し、29,000人という日本軍を上廻る死傷者を出したからだ。それは米軍にとって大きなショックとなり、沖縄戦では総兵力を投入して2週間で占領する作戦を立てたが、これまた日本軍の凄絶な死闘により3カ月も要している。日本軍は硫黄島、沖縄戦で米軍に甚大な損失を与え、米国を恐怖させたのである。
かつて米国人が戦勝国、敗戦国を問わずに第二次世界大戦での名将10人を選出した時に、日本から硫黄島戦指揮者の栗林忠道中将と沖縄戦の牛島満中将の2人が選ばれたという。米国人にこのように評価された日本将兵の戦いが、大局的に見れば、米国側に日本本土決戦の容易ならざることを悟らせ、危惧させるとともに、日本側の国体護持の終戦目標にも目に見えぬ心理的影響力を及ぼしたことは確かである。硫黄島の戦歿将兵の御霊は、沖縄の将兵とともに護国の英霊としてこれからも慰霊・顕彰し続けていかなければならない。