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御裳捧持者――華族の子弟たち

『皇室』バックナンバーより 第2回
令和7年7月23日
宮中新年儀式は、明治20年(1887)から洋装で行われるようになった。
皇后と親王妃方はマント・ド・クールと呼ばれた洋装大礼服で出席された。
このとき、お召し物の裾をお持ちしたのが、「御裳捧持者」(おんもほうじしゃ)である。
昭和19年(1944)に廃止となったが、平成15年(2003)、この御裳捧持者の歴史について、1冊の本が上梓された。
社団法人霞会館「公家と武家文化調査委員会」による「宮中新年儀式と御裳捧持者」(非売品)である。
『皇室』21号では、霞会館の協力を得て、この貴重な本について紹介している。
また、実際に御裳捧持者として、昭和12年(1937)と同16年(1941)の儀式に奉仕された3人の方にも話をうかがっている。

(21号より)

洋装化を推進された昭憲皇太后
 明治の御代、宮中の女子の礼服の洋装化を奨励されたのは、時の皇后、昭憲(しょうけん)皇太后だった。諸外国の王侯たちに応接するなかで、皇室の国際化の必要性をお感じになっていたのである。
 明治20年(1887)1月には、女子服制に関する「思召書」(おぼしめしがき)を下賜。公式儀式が立礼(りゅうれい)様式となった場合、洋装がより適していて身体の動作や歩行に便利であるとし、ドイツ帝国皇后兼プロイセン国王妃アウグスタを規範として洋装着用を奨励された。
 ちなみに昭憲皇太后が洋装で公式の場に初めてお出ましになったのは、明治19年(1886)7月30日、華族女学校(現・学習院女子大学)卒業式ご臨席の際のことである。そして翌20年の宮中新年儀式から、昭憲皇太后と親王妃殿下方はマント・ド・クールをお召しになることになった。



御裳捧持者が生まれた理由
 マント・ド・クールとは、19世紀初めフランスのナポレオン一世の宮廷の礼服として着用されるようになったものである。その名の通り、マント(英語ではトレイン)を伴うのが特徴で、ドレスとは別に仕立てたマントを腰か肩に付け、裾を引いて歩く。マントは身分が高いほど長く、プロイセン宮廷では、最高8メートルもの長さがあったという。
 こうなるとその長い裾を皇后や王妃が自力で引いて歩くのは難しい。そこで生まれたのが御裳(裾)を持つ役目で、それに任じられたのはパージェと呼ばれる少年だった。
 パージェには貴族の子弟が任命された。パージェには料理や飲み物の給仕という仕事もあったが、御裳捧持が最も難しいとされた。御裳が土に触れてはならず、貴婦人方がスムーズに動けるように配慮しなくてはならないうえ、マントの美しい生地や刺繍などを見せるため、できる限り幅を広くして持つ必要があったからである。ゆえに御裳捧持者は通常のパージェとは区別され、プロイセン宮廷では「シュレッペントレーガー」と呼ばれた。日本の御裳捧持者は、このシュレッペントレーガーに相当する。
 明治20年(1887)、21年の宮中新年儀式の御裳捧持者は天皇に仕えた侍中(じちゅう)の武官が務めたが、同22年からは学習院の生徒が拝命した。

捧持者に選ばれる条件
 プロイセン宮廷同様、わが国でも御裳捧持者は大切な役目とされ、人選は慎重に行われた。『昭憲皇太后史』には「第一に風采端麗のものを選ぶ、次に本人の学業成績を閲(け)みし、平素の行状、両親の身分、並びに職業、家庭の有様等を調査して」とある。
 年齢は13、14歳だったとされたが、実際には「学習院中等科の1、2年に在籍する華族の子弟」が選ばれたという。
 辞令は前年の12月に宮内省から届く。辞令が届くと、年末から予行演習が行われる。
 予行演習は、明治時代はマント・ド・クールをお召しになった皇后を模したマネキンを使って行われた。この記事に登場した昭和12年(1937)、16年(1941)の捧持者3名の方の時代にはそういうことはなく、「皇后陛下のお裾は4人、妃殿下方のお裾は2人で持つ」「皆で歩調を合わせること」「角を曲がる場合は内側の人は足踏みをして外側の人の歩調に合わせなさい」など、簡単な説明と注意事項を言い渡されただけだったという。
 捧持者の服装は、プロイセン宮廷のものとは異なり、独自にデザインされたものだった。
素材は濃い紫色のビロード生地。白い絹糸でできたボンボンが胸に10個、袖に1個、ズボンの両脇に2個ずつついている。内には襟と袖口にレースがついたシャツを着て、脚には白いメリヤスのタイツ、エナメルの靴を履いた。さらに背中にはダチョウの羽がついた帽子を背負い、腰には剣を吊るという姿だった。
 この「御役服」を誰がデザインしたのかは不明である。ちなみに御役服はすべて戦災で焼けてしまって現存していない。



胸を張って顔を上げ、歩調を合わせて歩いた
 戦前の宮中新年儀式は元日と翌2日に行われた。
 元日、ハイヤーで宮内庁に向かうと、御役服に着替え、明治宮殿へ。
新年儀式では、幅約3.6メートル、長さ約50メートルにわたる長い廊下の両側に人々がずらりと並び、その中を天皇・皇后が歩く。両陛下が通り過ぎるとき、みながさーっとお辞儀をする。自分たちもちょっと偉くなったような気分になり、胸を張って顔を上げ、みんなで歩調を合わせて歩いたという。
 翌2日は各国大使との謁見である。捧持者は皇后や親王妃方の後ろに立ち、儀式を見守った。
 昭和14年(1939)の宮中新年儀式から、皇后のお召し物はマント・ド・クールから通常礼服のローブ・モンタントに変わる。戦時色が濃くなるなか、礼服も変わらざるを得なかった。以後、最後の年となった昭和19年(1944)まで、御裳捧持者は皇后、親王妃方の後ろに付き従うだけで、御裳を捧持することはなくなった。それにしても食べ物にも事欠くようになった昭和19年まで、よく役目が続いていたものである。しかし、今となってはその存在を知る人も少ない。これを伝える書物が霞会館から上梓されたことは貴重なことであろう。
 『皇室』21号では、『宮中新年儀式と御裳捧持者』に掲載された「大正5年御裳捧持者 渡邉昭氏 インタビュー」も転載している。なお、渡邉昭氏は、上皇陛下の侍従長を長く務めた渡邉允氏の父に当たる。

『皇室』21号では、詳しい内容と豊富な写真をお楽しみいただけます
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