読みもの
連載 方言「知らんけどね」
第1回「さでこけた」熊本弁
令和7年7月23日

季刊誌「皇室」の編集部には、現在3人の常駐編集者がいる。それぞれ出身は熊本、愛媛、愛知である。そこで、初めは、この3人のご当地言葉からの連載を始めていく。
第1回「さでこけた」熊本弁
「あとぜき」や「とっとっと」など、すっかりメジャーな方言は流通した感のある熊本弁。ちなみに「あとぜき」は、ドアの後閉めや席をきちんと戻すことなど、広く行儀作法を言う時に使う。「とっとっと」は「この席、とっとっと?」(この席は、取っている/既に確保してあるの?)などの言い方で使う。
しかし、一口に熊本といっても広い。南に行けば、鹿児島弁の影響もあるし、北に行けば博多弁の影響もある。地域差も大きいのだ。
例えば、筆者は熊本市内の生まれだが、いとこが熊本県の南に位置する人吉(ひとよし)市に住んでいる。ここは、令和2年(2020)7月豪雨で大変な被害となった球磨川(くまがわ)が流れる球磨地方だが、子供の時はよく遊びに行ったものである。その時の会話で今も鮮明に覚えていることがある。3歳違いの従弟をキャッチボールに誘った時のことだ。
「キャッチボールしよか?」と私が言うと、返ってきた言葉は「でー」。うまく聞こえなかったのかと思い、もう一度「キャッチボールしようか?」というと、「だけん、でーって、言よったい!」という返事が戻ってきた。最後の言葉を翻訳すると「だから、でーと、言っているでしょ!」である。
そこで私は、「でー、てなんね?」(でーとは何?)というと、従弟はポカンとした顔で「嫌、ていうこったい!」(嫌だ、ということでしょ)と笑いながら返ってきた。ことほどさようなのである。そういう私も、父親が甲佐(こうさ)町の出身だったため、私の熊本弁はその方面の影響を多分に受けている。ちなみに甲佐町というのは、熊本地震の震源だった益城(ましき)町の隣町である。
そんな熊本であるから、今はどうか知らないが、昔は、標準語をしゃべることを嫌うというか、気取っていることとして恥ずかしがっていた。高校生の時に、英語の教師が、授業でよく語尾に「だぜ」を使っていたが、私たち生徒は「だぜ、てたい。きしょくんわりー」(だぜ、だって。気持ち悪ー)と、陰で言っていたものである。
前置きが随分長くなってしまったが、連載第1回目の今回は、そんなことに関連する話をしてみたい。私の父親がよくしていた話なのだが、標準語を使って上品を気取る母親の笑い話である。場面は、よちよち歩きを始めた子供が一人で、ずんずん先に行ってしまうのを、その母親が気遣いながら追いかけて行っているところである。その子供の名前は「みっちゃん」ということにしておこう。
「ほら、危ないわよ、みっちゃん、気を付けて、よく前を見てね、ほら、危ない! 待って、待って、転ぶわよ」と言っている口の下から、子供は転んでしまい、慌てた母親が、つい口に出すのが熊本弁の「ほら、さでこけた!」で、子供を抱きかかえるのである。
「さで」とは強調を表す語であり、動きを表す語でもある。本来、あくまで標準語で通すなら「ほら、さでこけた!」ではなく「ほら、だから言ったでしょ! 転んじゃった!」のはず。どんなに気取っていても、緊急事態の時には、地が出てしまうことを笑っているのだが、裏を返せば、子供を思う母親の心情を表す、いい話とも言えそうだ。
先にも書いたように、少し前まで、日常で標準語を話すことを気味悪がっていた熊本の気風だ。この話においては、標準語部分を女性の声音でアクセントを強調し、最後に熊本弁で大きい声で言うと、効果てき面に笑えるのだ。というのも、熊本弁にはアクセントというものがほとんどない。棒読みのような会話が続くのである。だから、他所から行くと、一層分かりにくいし、標準語のアクセントを気持ち悪いものとして受け取ってしまうのである。
ここで一つ、ご注意を。先に「さで」は動きを強調する語と書いたが、「さで駆ける」や「さで飛ぶ」などとは言わない。あくまで「さでこける(こくる)」や「さでよする」(かき集める)などにしか使わないのである。
文/伊豆野 誠