読みもの

第30回「通じん」熊本弁
「通じん」、これは「つうじん」と読む。だが、ある分野や物事に精通している人や、物事の微妙なニュアンスを理解できる粋な人を指す言葉ではない。むしろ逆に「理解できない」ことを指す。標準語の「通じない」に近い。
例えば「あん人の言うことは難しすぎて、いっちょん通じん」(あの人が言うことは難しすぎて、まったく分からない)などと言う。ここで「まったく」と訳した「いっちょん」のことは後で説明するが、上の例は、標準語の「通じない」と同じものだろう。
しかし、その多くは「どうしてあの人はあんなに怒っているのだろうか? 通じん!」と感情露わに独り言を言うような時に使う。
翻訳すると「なんであん人は、あぎゃん(あんなに)怒っとっとだろうか? 通じん!」となり、「まったく理解不能で分からない」のだ。「通じない」どころか、「何かがつかえてまるで通らない」不快な様相さえ呈しているといえよう。
だから、噂話をするときなどにも使われやすい。
「あん人は、急に怒らして帰んなはったてたい。もう通じんとたい」(あの人は急に怒って帰られてしまったんだって。もう何がなんだか分からないのよ)といった具合である。ちなみに、「帰んなはった」の「はった」は、標準語の「された」に相当する尊敬語である。
どうだろう。「通じん」は、「意味が通じん(分からない)」「あの態度はここでは通じん(通らない)」といった用法を超えて、単独で「もう意味不明!」といった怒りや困惑を表す言葉となっているのだ。
以前、筆者は、夫婦喧嘩をした後に母親が、台所で感情を抑えながらつぶやいた一言が妙に印象に残っている。その言葉とは、「もう、通じん!」、である。
そして、先の「いっちょん」である。これは「ひとつも」と訳したい方言である。「いっちょん」を分解すると「いっちょ」と「ん」になる。「いっちょ」が「ひとつ」、「ん」が「も」に該当する。熊本のみならず福岡でも使われるようだ。
例えば「いっちょん言うとらん」(ひとつも言ってない)、「いっちょん食わん」(何も食べなかった)、「いっちょん好かん」(ぜんぜん好きではない=嫌いだ)などと使うのだ。
従って、「いっちょんし
これらの用法から分かるように「いっちょん」は否定の場合に使うので、「いっちょん〇〇」の「〇〇」を省いても、会話の流れで通じる。むしろ厳しく「いっちょん!」と単独で使えば否定的な度合いが増すのだ。むしろ、ケンカ腰の態度と言ってもいいだろう。
例えば、「今、なんて言うた!?」ときつく問われて、「いっちょん!」と返すのである。そうすると喧嘩が始まってしまうが、その際の用法はまた改めて書いてみたい。
そして最初に挙げた「いっちょん通じん」には、また、別の意味があるのだが、それに関しては次回で触れるのでお楽しみに。
文/伊豆野 誠
前回は https://nihonbunka.or.jp/column/yomimono/detail/100896