連載[第1回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第1回
令和7年7月23日
自衛隊機の中から見た硫黄島。硫黄島は東京から南に約1250㎞のところに位置する。この写真は北東方面から見た硫黄島で、島の南西部にある摺鉢山(すりばちやま)は写真奥にある

「硫黄島」と聞いて、凄まじい戦闘を連想しない人はいないだろう。クリント・イーストウッド監督による『硫黄島からの手紙』や梯久美子著の『散るぞ悲しき-硫黄島総指揮官・栗林忠道-』などが、改めてその印象を強くした。
 硫黄島では毎年、東京都などの主催で遺族による追悼式が執り行われている。
(公財)日本文化興隆財団においても(公社)日本青年会議所関東地区協議会と共催で、内閣府と厚生労働省の後援のもと「硫黄島訪島事業」を行っている。
 硫黄島へは埼玉県の入間基地から自衛隊機で向かう。島では、自衛隊員の案内によって戦跡を回るが、真っ先に向かうのは「硫黄島戦没者の碑(天山(てんざん)慰霊碑)」だ。慰霊祭が終了すると、遺族関係者はそれぞれ慰霊碑にたっぷりと水をかけ、お酒や煙草、お菓子、お花などを供えていく。
砲身に砲弾がめりこんだまま錆びついた「大阪山砲台」や、地下に続く「海軍医務科壕」「兵団司令部壕」など、島には戦闘の片鱗が生々しく残っている。都心からはるか南の硫黄島の日差しは厳しく、今も活動中の火山である硫黄島では、地下に入ると一瞬で眼鏡が曇る。
 それでも、時折、海風が渡っていく。若い人は神妙に、女性は涙を流しながら、じっくりとお参りを続ける関係者たち。ほとんどが戦没者の孫世代で、お一人での参加もあれば、親子、あるいは親戚が集まってのものもある。胸をよぎる思いはそれぞれだ。
  戦後80年が経とうとしている今、「硫黄島に触れる」とはどういうことなのか? 筆者はコロナ禍などで渡島できなかった時期を除いて、令和元年(2019)から毎年、この事業に同行し遺族に話を聞いてきた。その内容は、戦争の余波ともいえる「思い」であり、時を隔てた今ならではの新しい形を帯びていた。以下はその記録である。

取材・文/伊豆野 誠

■連載[第1回]
「やっと遺族になれた気がしました」その1
今井明美さん(昭和45年生まれ、戦没者・母方の祖父)の場合

●母の「写真でしか知らない父」への思い
 今井明美さん(52歳)に初めてお会いしたのは、令和4年8月8日・9日に行われた「硫黄島訪島事業」においてだった(年齢は当時、以下同)。一行はマイクロバスに分乗し、日本軍が要塞のように張り巡らせた地下壕や、米軍が星条旗を立てたことで知られる島唯一の摺鉢山(すりばちやま)などの戦跡をめぐる。今井さんに話を聞いたのは、最後に訪れた擂鉢山から自衛隊の硫黄島基地へと戻るバスの中だった。今井さんは北海道生まれの母方の祖父をこの地で亡くした。火山活動が今も盛んな硫黄島の道は凹凸が激しく、時折、大きく揺れる。道の形状をよく知る自衛隊員が慎重に運転を続ける中、言葉を選びながら静かな声で話す今井さん。語るにつれて涙が流れ、時折、鼻をすする音が響いた。
「こんなに大きな島とは思いませんでした。
 祖父は漁師でしたし、北海道育ちの人がどう戦ったのか、どこで死んだのか、ずっと考えていました。壕にも入りましたけど、天然のサウナのようで硫黄臭く、やはり祖父もこんな壕を掘ったのだろうか、など様々な思いが巡っていました。
 感慨深かったです。母も元気なうちに来られれば良かったのですが……。晩年になって、行きたい行きたい、と言い出しまして、でも、観光地ではありませんしね。行く術も分からなかったんです。そして、去年の秋に急死しました」
 今井さんは山形県酒田市で暮らしている。お母様は脳出血で亡くなった。78歳だった。突然のことで誰も看取ることはできなかった。令和3年11月17日。奇しくも月命日は、硫黄島の日本軍が玉砕し、そこで多くが戦死した日とされている昭和20年3月17日と同じであった。
「母は自分の父である祖父とは、生まれてすぐと言ってもいい頃に別れているんです。写真でしか知らない父に対する思いには強いものがありました。
 祖母は、北海道での暮らしや、祖父の出征のことなどはほとんどしゃべりませんでした。南方で死んだ、というくらいで。生まれ故郷に帰って来て、生活が大変だった、というような戦後の話が多かったんです。それは母に対しても同様だったと思います。北海道での生活などが分かったのは、後に、実際に北海道に行ってみて分かったことですから。恨み半分だったのかもしれません」
(次回更新:7月29日掲載予定)
今井さんの母親の実家の仏間に飾られている相澤五郎の遺影と顕彰の額
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