
■連載[第7回]
A級戦犯容疑で収監された政治家・作家の孫として その1
福田彩子(さいこ)さん(昭和46年生まれ、戦没者・伯父)の場合
●父親の思想を体現するため戦って亡くなった伯父
福田彩子さん(50歳)に会ったのも、当財団が共催する令和4年(2023)の「硫黄島訪島事業」においてだった。長崎県でお暮しの福田さんは、娘の祐(ゆう)さんと参加されていた。
話を聞いたのは、硫黄島を飛びたつ前の自衛隊基地においてだ。番号が付されたネックレス状の「ドッグタグ」という首にかける金属製の認識票を自衛隊員から渡され、搭乗の準備が整うのを待っている間だった。
これから2時間40分ほどのフライトになる。一般の空港の搭乗所とは違って、そんなには広くない空間だ。トイレに行く人、荷物の整理などで辺りは騒々しい。慰霊・巡拝の全行程を終え、母娘は少し疲れた様子で長椅子に並んで座っていた。感想を求めると、わずかな沈黙の後、一点を見つめて彩子さんの口が開かれた。
「一層、複雑な気持ちになってしまいました。祖父のことは、実家で話題になることも多く、いろいろ聞かされていました。思想家でもあり政治家でもあった祖父は有名な人でした。ですが、そのために大事な長男を死なせてしまった……。長男だった伯父は、父親である祖父の思想を体現しようとして戦ったんです。親のため、国のために戦って、23歳で死んでしまいました。家族の期待を背負って戦場に行ったんです。でも、この現場に来て、ここがあの摺鉢山か、あの壕か、など、いろいろ思いながら見てみても、結局、伯父はどこで死んだかさえ分かりません」


●夏目漱石の初の本格評伝を出版。才覚のみで世に出た立志伝中の人
福田さんの祖父とは、戦後にA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監された池崎忠孝(ちゅうこう/ただよし)のことである。現代では、文芸評論家・赤木桁平(こうへい)としての方が有名だ。夏目漱石の死後の翌年(大正6年/1917)には、初の本格評伝『夏目漱石』を出版した。その著書は今でも、講談社学術文庫で読むことができる。
忠孝は岡山県で生まれたが、生家の赤木家は18歳の時に破産。学費の援助を条件に、大阪の池崎家の養子となった。第六高等学校(現・岡山大学)から東京帝国大学に入学後、夏目漱石門下に。大学時代から文芸評論家として名を馳せ、芥川龍之介など名だたる作家と交流した。卒業後は一時期『万朝報(よろずちょうほう)』で論説委員を務めたが、養家の長女と結婚しメリヤス業の家業を継いだ。一方で、昭和4年(1929)には、『米国怖るゝに足らず』を出版してベストセラーとなった。その後も、『宿命の日米戦争』や『太平洋戦略論』など戦争関連の著書を出版し、昭和11年(1936)に衆議院議員に当選。文部参与官などを務め、大日本育英会の設立にも尽力した。
敗戦後にA級戦犯容疑をかけられたのは、数十冊にも及ぶ戦争関連の著書の出版で国民を扇動した罪に問われたからだった。この手の本は、日米両国で多く出版されたが、忠孝の本は売れに売れた。軽妙なタッチも相俟って人々の戦争に対する不安感を払拭したようだ。ひいてはアメリカでも翻訳された。取り調べの結果、扇動の意図はなかったとされ、さらには肺結核となって保釈されるが、昭和24年(1949)、58歳で自宅で療養中に亡くなっている。最後には挫折を味わうことになったが、才覚のみで世に出た立志伝中の人と言っていい。

●学徒出陣と、硫黄島からの実際の手紙
硫黄島で亡くなったのは、その忠孝の長男で、福田さんの伯父にあたる池崎修吉だ。昭和18年(1943)9月、早稲田大学文学部を卒業しての志願だった。徴兵を猶予されていた大学生などの卒業が、半年早められたのだ。戦局が厳しさをます中、同年10月には学籍をもったまま兵役につく「学徒出陣」が行われている。
福田さんにとって、伯父のことが意識に上ってきたのは、祖父に関係があった。京都大学の教授から、祖父の評伝を書くための協力を依頼された時のことだ。家で史料を探していると、ふと伯父が祖父と家族に宛てた手紙が目に留まった。
それは、「千葉県木更津海軍航空基地気付」になっているものの、文面から考えて間違いなく硫黄島からの手紙だった。冒頭部分には「毎日々々、ドカーン、ビシャ―の連続で真に切迫した情勢を思わせるようになってまいりました」と書かれている。それにも拘わらず、続く文面には、自分の父親の思想や信条に沿うかのような「大義」を連ねた言葉が書かれていた。
「真に日本が次の世紀における勝者たらんには、偉大者らしき、あるいは偉大者にふさわしき苦痛がともなうものだ。我々が現在、完全に闘うこと、これが最も原始的にして最も文化的なる使命である、とかかる話しで当直非番の夜を過ごしつつ若者らしい感激にひたっているのです」「戦略的に私は父上と同じように、いまだその不敗を信じてやみません」(旧仮名遣いは改め、漢字を平仮名にするなど、句読点も筆者が補った)
そして、末尾にはこうあった。
「どうか純吉をして立派な人間たらしむべく御教育を願います。もし私に何か変わったことが御座いますれば、私のものは全て純吉に引き継ぎ、私の貯金等も純吉の教育費の一部にまわして下さるよう、御願い致します」
この「純吉」こそが、福田さんの父親にあたる。長男の修吉とは、間に妹たちを挟んで、11歳も違う末っ子だった。
(続きは9月9日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
