連載[第3回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第3回
令和7年8月5日
左写真は相澤五郎とマスミさんが結婚した時の写真。右は家族写真。左が相澤五郎で右端がマスミさん。前列左から長男と三男、四男で、真ん中に写っているのは五郎の妹。子供たちの世話をしていたという

■連載[第3回]
「やっと遺族になれた気がしました」 その3

●酒田から小樽へ。そして、つかの間の幸せ
 山形県酒田市は、県内を北に流れる最上川の日本海の河口に面している。平野が開け、近くに迫る山はない。背後にただ一つ鳥海山(ちょうかいさん)の麗しい姿が控える。古くから北前船の寄港する港町として栄えてきた。その繁栄ぶりを示すかのように「酒田の芸妓」は有名だった。「庄内おばこ踊り」も受け継がれている。日本海の強い海風のために、冬には地吹雪が舞う。砂地の上に作られた町であるため水はけがよく、大火にも何度もみまわれてきた。
 市街地の喫茶店で、今井さんに話を聞いた。3か月前に、硫黄島でお会いした時とは少し違う印象で、明るく気さくな女性である。
 その酒田市郊外に、今井さんの母方の祖母・マスミさんは大正元年(1912)に生まれた。家は小作農家で貧しかった。次女だったマスミさんは小樽に住んでいた親戚を頼って奉公に出ることになった。ニシン漁が盛んで景気が良かったからだ。そこで出会ったのが、小樽に仕事に来ていた相澤五郎だった。
 結婚した時の写真を見せてもらった。相澤五郎は長身で面長な端整な顔立ち、マスミさんは、少しふっくらとして目鼻立ちのはっきりとした意志的な感じである。小樽で長男と二男、三男を儲け(二男は早逝)、広尾に戻ってから四男と今井さんの母親である正子(まさこ)さんが生まれた。今井さんは言う。
「相当、裕福だったようです。毎年、みんなが盛装して写真館で家族の記念写真を撮っていたようで、あの時代にそんな家庭は少ないですよね」
 しかし、幸せはつかの間、夫は帰らぬ人となってしまった。夫の親族が内地の実家へ帰ることを勧めても、マスミさんは1~2年、拒んでいた。しかし、戦後の混乱の中、親族たちは本籍である帯広へ移転せざるを得なくなり、マスミさんは仕方なく酒田へ帰ってきたようだ。それからは、とてつもない苦労の連続だった。なにしろ、4人の子供をかかえての帰郷であり、貧しい実家に頼ることもできない。あばら家に住み、幼かった長女(今井さんの母)を背中にくくりつけ、近くの農家の手伝いをし、土木作業にまで手を広げて糊口をしのいだ。

●土にまみれて働き、祖父のことを決して語らなかった祖母
「母が亡くなる少し前に、母の実家のお墓参りに行った時、母が『引き揚げてきてしばらくは、あそこに住んでいた』と指さしたんです。それは、倉庫のような建物でした。まだ、残ってたんですね。
 当時をしのんで母は言っていました。学校に行かなくてはならないけど、制服も作れない。服装のこともそうだけど、なによりお弁当の時間が一番、恥ずかしかったって。中身を見られないように上蓋で隠しながら食べていた、と……」
 兄妹4人は、順次、中学を卒業すると働きに出た。その援助と遺族年金、そして今までと変わらぬ土にまみれた労働によってマスミさんは生活を続け、子供を育てた。子供たちが一人前になっても、その仕事ぶりは変わらなかったという。
「ですから、祖母は、祖父のことについて、決して語らなかったのだと思います。恨んでいたのだと思います。
 母の初盆の時に、私と同世代の母方の従兄弟に、私が硫黄島に行ってきたことを話したんです。すると、祖母と一緒に暮らしていた従兄弟たちでさえ、祖父が志願して出征して行ったなんて知らなかった、って言うんです。硫黄島で死んだことも、はっきりと意識していなかったようです。そのことには、少なからずびっくりしました。私と同世代の、しかも内孫なんですけどね。従兄弟たちの父にあたる伯父は知ってはいましたけど、やはり、祖母の口からは、語られていなかったんです」
 マスミさんの4人の子供たちは、長男が防水業の会社に入って婿養子となり、医薬品卸会社に勤めた三男が家を継いだ。二男は死産に近い形だったようだ。四男は長男の会社に勤めて、今井さんの母である長女は理容師となった。それぞれに結婚して子を成した。現在も存命なのは三男のみとなったが(令和6年11月に死去)、相澤五郎とマスミから派生した家系はそれぞれ今も続いている(系図参照)。
 マスミさんは孫から見ても厳しいおばあちゃんだった。自分の意見ははっきり言う人で、家を継いだ三男の奥さんともめることも多かったという。しかし、そんなマスミさんには、もう一人、子供がいた。酒田に戻ってきてからの子で、内縁の夫がいたのである。ほどなく別れることにはなったようだが、苛酷な半生を聞いてきた中で、ふと嬉しくなる事実だった。その男の子は、長じて、今井さんの母親と同じ理容師となり、現在は九州で暮らしているという。戦後の混乱と高度成長期。昭和の激動の時代に、相澤マスミは幾人もの子供を育て上げたのだ。
(続きは8月12日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
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