
■連載[第5回]
「やっと遺族になれた気がしました」 その5
●酒田の大火
今井さんは、正子と義勝の長女・前田明美として昭和45年(1970)1月に生まれた。1歳違いの兄がいて、後に4歳違いの妹ができた。
昭和45年といえば大阪万国博覧会が開かれた年である。女性誌の『an・an』も創刊された。豊かな未来を想像させる一方で、公害も大きな社会問題となっていた。「よど号」ハイジャック事件など極左勢力による活動が先鋭化する一方、作家・三島由紀夫が割腹自殺したのもこの年だ。この2年前の昭和43年に、日本の独立回復の後もアメリカの管轄下にあった硫黄島を含む小笠原諸島が日本に返還され、2年後の昭和47年には、沖縄が日本の施政下となった。グアム島のジャングルで残留日本兵の横田庄一さんが発見されたのも昭和47年のことである。
今井さんにとって最も古い記憶は、昭和51年10月29日、小学校1年生の時に起きた「酒田の大火」だった。繁華街にあった洋画専門の映画館から夕方に出火した火災は風速25メートルを超す暴風にあおられ、翌朝5時までに1774棟を焼き尽くした。
「市街地からは少し離れたところに住んでいたのですが、消防車の音が鳴り響き、夜中なのに空が赤かったことを覚えています。TVで『太陽にほえろ!』を見ていると、親戚がリヤカーに家財道具を積んで避難してきました。数日後、家族で中心街を見に行きました。焼けただれてぐにゃりと曲がったアーケードなどの姿が目に焼き付いています。映画館には入ったことはなかったんですけど、入口の回転ドアは覚えていて……、そんなたわいもないことは覚えているんですよね。その姿も変りはてていました。しばらく、あちこちに仮設住宅が建てられていたことも覚えています」

●2世紀続く老舗の漬物店
幼稚園や小学校の時は「おてんば」で元気な子供だった。しかし、中学では、学校の雰囲気もあいまって「一番暗い時期」を過ごした。それが、女子高に進むと、またはじけた。この頃の友達とは今も付き合っている。すべて市立の学校だった。
酒田市の人口は約10万人で県内第三位。地方都市のほとんどがそうであるように、県庁所在地の大学や東京・大阪の大学に進学した多くは地元に戻ってこない。それ以外は、市役所や地元企業などに勤める。明美さんは「地方独特の閉塞感や監視されているような感じがイヤ」で、東京の専門学校に進学することにした。
「母親からは、自分がそうであったように、手に職をつけろ、とうるさく言われました。編集関連の専門学校に通いましたけど、就職したのは医療機器関連会社の事務職でした」
昭和63年(1988)、時代はバブル景気の真っただ中である。
「会社の近くに信販会社があって、そこの制服は毎年変わっていてうらやましかったですね。うちの会社はたいしたことはなかったです。それでも、会社の先輩たちと食べ歩きには良く行きました。ディスコなどには行きませんでしたけど」
しかし、「通勤さえ大変な東京に疲れて」、2年ほどで帰郷。アルバイトなどをしながら実家にいたが、ある時、幾多の名馬を生み出してきた北海道の日高町などの牧場巡りをした。一人でクルマを運転し、気の向くままの旅だった。そして、「きちんと会社勤めをしないのなら、出ていけ」と母親に言われ、父親からも家を出ることを勧められたため、また、東京に行き、賃貸仲介の不動産会社で働いた後、再度、帰郷して飼料関連の会社で働いた。その頃、友人の結婚式で出会ったのが夫となる今井清彦である。
きっかけは「馬」だった。ちょうど宝塚記念が行われていた日で、レースの勝敗が気になっていた。清彦さんも競馬が好きで、ラジオを持ってきていたのである。披露宴が始まり、そのラジオのおかげで結果を知ることができ、共通の趣味に話が合った。
平成7年(1995)、二人は結婚した。明美さん25歳、清彦さん33歳の時である。今井家は、江戸時代後期の天保5年(1833)から約2世紀も続く酒田の老舗の漬物店だった。清彦さんは三人兄弟の長男で家業の跡取りである。翌年には長女が生まれ、その3年後には二女が誕生した(系図参照)。
(続きは8月26日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
