連載[第10回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第10回
令和7年9月23日

■連載[第10回]
A級戦犯容疑で収監された政治家・作家の孫として その4

●息子の助命を切望する妻と叱りつける夫
「伯父は即死状態でした。しかも、自ら斬り込んでいってます。本望だったと思います。映画などを見ると、もっと悲惨な死に方をした人も多くいらっしゃいます。だから、読んで、泣いてはしまいましたが、せめてものことだったのではと思いました」
 後に福田さんに会った時に聞いた感想である。一方、その本には、祖父の妻である能婦(のぶ/通称・能婦子)が、夫に息子の助命を迫るシーンも出てきていた。

 硫黄島を守る将兵には傷病による後送以外転勤はなかった。しかし、海軍の士官には僅(わず)かながら転勤の機会があった。特に兵学校出身の士官はいつとはなしにほとんど姿を消し、特務士官もポツンポツンと還(かえ)っていった。(中略)
二十七航戦司令部にいた池崎の家郷でも微妙な会話が交わされていた。池崎の父は衆院議員池崎忠孝だった。
「軍に頼めば硫黄島から任地を変えてくれるという話もありますが」
 池崎夫人はこうひかえ目に夫にただした。『太平洋戦略論』など何冊もの著書も出し、岸信介前国務相(戦後・総理大臣)らとも交友が深く革新派(当時の民族派主戦派)と目されていた池崎代議士は、言下に叱(しか)りとばした。
「こんな祖国日本の危急に代議士の息子も何もあるか、二度と馬鹿なことは考えるな」

 本の巻末の「取材協力者名簿」には、「池崎能婦」と「池崎純吉」の名が記されている。上記は祖母である池崎能婦本人の証言によるものに違いない。

●戦後、家には石も投げられた
 その「能婦おばあちゃん」は、福田さんが7歳の時に亡くなった。ニコリともしない人だったという。同居していたものの可愛がられた記憶はない。
「ある時、彼女は、年をとると、つまらないこと、厭なことが多いとしみじみと言ったんです。それを聞いた私は、母に『ゴハンを食べない、大きくなりたくない』と言ったんですね。なぜ? と母に問われて『大きくなって年をとると、つまらないことが多いんでしょ。おばあちゃんが言っていた』と答えたのを覚えています」
 能婦は裕福だった池崎家の一人娘で、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)器楽部を卒業している。
「ピアノ科だったのにピアノなどはありません。上げ膳据え膳で何もせず、歳をとってもお嬢様という感じでした。母と折り合いが悪かったとは思わないのですが、静かで不思議な人でした。祖父はむちゃくちゃなこともいっぱいしていたようですし、長男である修吉伯父のことも含め、心中にはさまざまなことが去来していたのかもしれません」
 高級メリヤス業を営んでいた池崎商店は戦時中に倒産した。夫・忠孝がA級戦犯容疑となってからは残った資産さえ差し押さえとなった。亡くなってからは、その細い両肩ですべてを背負わなくてはならなくなった。大阪の家を引き払い、所蔵していた夏目漱石の最後の小説『明暗』の生原稿さえ売り払っている。夫が夏目漱石の門下だった時に、その原稿一式を譲り受けていたことは有名だった。娘たちも病気がちでその後の生活は大変だったようだ。
「伯母たちが言ってました。祖父が巣鴨プリズンに収監されてからは、家に石も投げられた、と。伯母たちにとって祖父は一族の誇りであるのと同時に微妙な存在で、嫁ぎ先ではあまり口に出せなかったようです。池崎家に対するプライドは相当なものだったんですけどね。愛憎半ばする存在だったんでしょう」
(続きは9月30日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
ページ上部へ移動