連載[第19回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第19回
令和7年11月25日

■連載[第19回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その4

●兄の所属部隊の壕で収容した遺骨13体
 源一の死の真相が分かってから約1年後の昭和49年4月、源二は渡島を果たしている。硫黄島協会会長と硫黄島からの帰還者、そして親戚の4人。2泊3日の慰霊で、源一が所属していた部隊の摺鉢山の壕では遺骨13体を収容した。そのご遺体に関し、髑髏は9つでそのうち一つは右穴が大きかったなど、リアルな描写もある。銃で自決した際、右側から撃った場合は、銃弾が出てくる左側で、その穴は大きくなる。だから、この場合は、おそらく左利きの故人と推測されるのだ。その時の模様を源二はこう書いている。
「入口はネムの葉で覆われていたが、高さは約1メートルで、壕内に入ると50度前後の地熱だった。約5メートル入ったところで、黒くこげた鉄カブトと遺骨13体を収容するも髑髏は9個で(中略)、もっと奥まで入って収容せんとするも、あまりにも硫黄の臭いと地熱が強烈で、暗くて狭い壕内であり、とても奥に進むことが出来ず(中略)熾烈なる状況下のもと、よくも掘削作業を強行し、壕内で頑張ったものだと実感した」
 壕の入り口に安置された観音像に、自宅の井戸から汲み上げてきた水や、ゆかりの品々を供え、源一が好きだった煙草と酒を喫した。硫黄島協会会長の読経の中、源二は慟哭していた。ジープで島内を視察し、戦没者顕彰碑と慰霊碑で頭をたれた。硫黄島への往復は海上自衛隊機によるもので、収容したご遺骨は、空港で待っていた厚生省の係官に渡し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に収められた。
 この「渡島慰霊記」で源二は、30年前の横須賀軍港での源一との最後の別れについて触れている。その時から、源二及び家族と源一との「軍事郵便」の往来が始まったのだ。

●「そちらからの手紙は一向に届かない」
 話は敗戦の1年ほどに前に遡る。昭和19年6月27日、源一が横須賀軍港より硫黄島へと出発する前日に、兄弟はその埠頭で会っていた。「お互いに国のために頑張ろう、と固く手を握り、軍用車中の私の顔が見えなくなるまで兄は手を精一杯振りながら、笑みをたたえ、にこやかな顔で見送ってくれた」と源二は書いている。
 その2日前、源一は横須賀から両親と妻・瑳巴子(さわこ)宛に軍事郵便を出していた。瑳巴子には「元気に朗らかに暮らせ。お前の日常の気持ちがすぐ史子(ちかこ)に移るから。(中略)史子を立派に達者に育てよ。お前も無理するな」と綴っている。
 史子とは先にも記した1歳になったばかりの一人娘である。この日のものを最初として実家に届いた16通の文面すべてが『追悼録』には載せられている。最後の日付は昭和20年1月29日で死の約1か月前のものだ。7か月間の“文通”だった。
 源一が硫黄島に着任したのは7月20日だ。私信を出せるのは15日と末日の月に2回のみ。豪堀りなどさまざまな軍務や敵からの砲撃・空襲などの合間に書き溜めたものだった。
 両親と妻にはもとより家業についてなどにも気遣いが事細かに書き連ねられている。受け取った手紙に書かれていた自宅の土地取引や親戚の動向への感想・指示など、そういう意味では日常の手紙の内容と大差はない。しかし、ぼかしながらも辛い状況を訴え、受け取った手紙への感謝と一人娘の成長の知らせについては感情が溢れた。届いた写真に頬ずりする様までが書かれている。勢い、「そちらからの手紙は船の都合かなんかで一向に届いていない」と手紙が来ないことへの不満も吐露されていた。

●ひたすら嬉しく何回も何回も読み返す
 以下、その手紙の中からの抜粋である。
「史子も片言交じりにて、ますます可愛くなってきたでしょう。機会があれば近影の写真を撮って送ってくれ。夏祭り、お盆、月見、打ち水…内地の季節的現象は本島におけるがごときなんら風情なき、また、自然の恩恵を受けざるものにおいて一人思い出される。お前も疲れも出ず元気でやっていると思う。今年の残暑も相当に暑いと思うが父母を大切にして何卒元気で暮らすべし」(8月30日、瑳巴子殿)
「母上及び瑳巴子よりの信書確手。同時に源二より2通、計4通。来島以来、初めての私信入手に際し、ひたすら嬉しく有難く懐かしく何回も何回も読み返す」(9月29日、父母上様)
「今晩は何回、何時頃、何機来るだろう、どこをやられるだろうと、次に来る瞬間を予想し、また緊張する。頑張ろう。元気で朗らかにお前も…。距離こそ離れているものの史子“萬歳”どんな小さな事でもよいから変わった事があれば報知されたし。特に史子のことについて俺は家よりの報告をもとにして色々のことを想像し偲びだす時間が一番楽しい」(9月29日、瑳巴子殿)
「こんなところにいると内地の自然のありがたさをしみじみ感じます。まず水です。入浴は上陸以来、部隊長以下、全員しません。海水では体を洗うのが関の山ですが、後が塩気でべとべとして気持ちが悪いです。数か所の井戸はありますが、相当の塩分と硫黄分とがあって、とてもとてもそのままでは飲料に適しません。結局、雨が降った時に、天幕等で受けて天水を炊事に使用する状況で、朝に水筒のふたのわずかな水で口をすすぐ程度です。父上様の入浴時等の湯水の使用の様子を思い出して、一度、こんなところに来られたらと一人で苦笑しております」(10月30日、父母上様 瑳巴子殿)

●最後の手紙の内容とは
 引用を続ける。
「一度に数通の手紙により、史子のさまざまの姿を思い浮かべ、一昨夜と昨夜と二晩続けて史子と一緒に遊んだ夢を見た。史子の白い歯を出してなんだか分からぬことを話し合っている夢を見たる次第なり」(10月30日、同)
「大神様の御神符を将校幕舎及び洞窟にお祀りさせていただいており、よけいに気持ちが心丈夫になった(筆者注:大神/おおみわ神社のお札を送ってもらって)」(11月30日、瑳巴子殿)
 そして、瑳巴子宛ての最後の手紙が以下である。
「元気だ安心せよ。お前も元気の由、史子ますます成人、楽しい次第。
(瑳巴子の弟が戦病死したことについて中略)敵機は頭の上を飛んでいる。爆弾を落としている。艦砲射撃の砲弾がさく裂している。自分も遺族として、なにくそ義弟二人の仇は必ず討ち取ってやるぞと力強く立ち上がり、頑張りぬくことが戦死せられし本人の霊を慰め冥福を祈る唯一の途(みち)なり。自分も本島で必ず米敵をやっつけるぞとの意気をもってますます自重し頑張るよ。(中略)
 毎日毎夜●●●……(以上伏字)とかく元気で朗らかに頑張る、心配するな。
 お前も体に注意するよう。酷寒の時候ゆえ(中略)風邪をひかぬよう、また、史子を頼む。特に史子を。
 戦況緊迫し忙しいので字が乱雑になった。判読すべし。今日はこれにて擱筆(かくひつ)する。ではまた、朗らかに元気で」(1月29日)
(続きは12月2日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠


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