連載[第18回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第18回
令和7年11月18日

■連載[第18回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その3

●母親の夢枕に血まみれで立っていた
 源一の死の真相を突き止めたのも源二だった。
 当初、家族が役場から受け取った「死亡通知書」には、「昭和二十年三月十七日」に「硫黄島方面ノ戦闘ニ於テ戦死」とされていた。それは硫黄島での戦死者の大半がそうであるように、栗林中将が大本営に「今や弾丸尽き水涸(か)れ 全員反撃し 最後の敢闘を行わんとするにあたり」との決別の電文を送った次の日で、事実上、大本営が硫黄島の失陥を発表した日である。その電文の最後に添えられた「国の為(ため)重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき」はじめ3首の栗林中将の辞世が世に聞こえている。
 要するに多くの人がいつどこで亡くなったのか分からないのだ。だから、多くの硫黄島の戦没者の亡くなった日は、その玉砕の日とされる3月17日になっている。
 しかし、源二の母・栗惠(くりえ)は、昭和20年2月22日の日記に「源一が軍刀をふりかざし、顔面ほとばしるどす黒い鮮血でまみれ、大きな目をギョロッとむきだして、こちらに向ってお母さんと、突進してきた夢を見た」と書いていた。栗惠は奈良県でも古い伝統を持つ県立桜井高等女学校(現・桜井高校)の第一回卒業生で、その高校時代から日記を書き続けていた。ちなみに、ここでの「軍刀」とは服部家に伝わる家宝「来國光(らいくにみつ)」だった。以来、栗惠はただ一人、毎年、その日に法要を欠かしたことはなかった。
 そして、戦後二十数年が経った頃、源二にある情報が入ってきた。それは、源一の部隊長だった陸軍少佐が生きて故郷の和歌山に戻ってきているというものだった。

●生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けること勿(なか)れ
 源二に情報をもたらしたのは陸軍士官学校の後輩と、硫黄島からの帰還者と遺族で組織された「硫黄島協会」からのものだった。
 源一の部隊長であった少佐は、激烈を極めた摺鉢山一帯での戦いの末、部隊本部の地下壕に5月末まで潜伏、その後、少佐以下残存者30数名と兵団司令部のあった島北部を目指して出撃後、玉砕した。6月3日のことだったという。
 先述したように3月16日に大本営に電文が送られてきたとはいえ、実際に栗林中将以下が、最後の総攻撃をかけたのは3月26日のことであり、その後も戦闘は各地で続いたのである。
 しかし、少佐以下30数名が玉砕したとされているものの、少佐は「人事不省、昏睡、意識不明」となり捕虜となって生還していたのだ。源二は早速、和歌山へと向かった。『追悼録』に源二はこう書いている。
「なぜ、もっと早く生還直後に副官であった源一の霊前にお参りくださらなかったのかと、申したいのは萬々ながら、軍人として戦陣訓『生きて虜囚の辱めを受けること勿れ』は充分ご承知なるも、人事不省で捕虜となられたご心情を察して、そのことには一切触れなかった」
 その戦陣訓の一節は、正確には「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」である。時の東條英機陸相が全陸軍に通達したもので、捕虜になることを過度に戒めたものだった。源二の求めにより「転心英断」した少佐は、源一の霊前に当時の部下を伴って訪れた。敗戦から28年後、昭和48年(1973)5月のことだった。

●「霊魂不滅……」と言って号泣した母
『追悼録』には、少佐とその部下を真ん中にして、源二夫妻と母、姉が、服部家の玄関前に並ぶ写真が掲載されている(系図1参照)。霊前で少佐は、「服部副官が生き残っていた部下の先頭にたち、軍刀を抜いて壕より出撃した後ろ姿が今も目に焼きついている」と涙ながらに語った。源一の死の真相は、共に敵陣に突入した兵が瀕死の状態でもたらした報告によるものだった。
 昭和20年2月16日、以前にも増して猛烈な艦砲射撃と艦載機による爆撃が始まり、摺鉢山の様相は一変した。19日、米軍の上陸が始まり、第一線の各部隊はほぼ全滅状態となった。
 交戦が始まって副官としての源一の主な任務は、部隊長代行としての各陣地間の連絡と、夜間における戦死者・戦傷者の壕内への搬送だった。源一は、19日からの3日間で、下士官以下20名を指揮し、300名弱を壕内に収容した。米軍は日中に、戦傷者を射殺あるいは火炎放射器で焼殺し、ブルドーザーで集積所に運び込んで埋めた。そのため、壕内への搬送は、夜間に不眠不休で行われたという。
 22日未明、所属部隊の残存兵力の有力な特攻隊の全員戦死の報などに接し、源一は少佐の制止を振り切り、兵5名を指揮して壕を出た。この時、敵の照明弾とサーチライトにより、自ら構築した摺鉢山山頂の陣地付近に星条旗が揚がっているのが見えた。陣地を奪還し、日の丸を揚げようと、刀を振りかざして敵陣に突入するも、八方よりの照明にさらされ、機銃掃射と十字砲火を頭部に受け戦死を遂げた。一瞬、仁王立ちになった姿がくっきりと浮かび上がった。午前2時~2時半の間だった。同行した兵のうち4名も戦死し、報告のため明け方に壕に戻った兵もその数時間後に亡くなった。
 88歳になっていた母・栗惠は、ひたすらに合掌し黙然と少佐の話を聞いていた。しかし、その瞬間が露わになった時、「やっぱり2月22日に霊が桜井に帰って来ていた。霊魂不滅……」と号泣した。
(続きは11月25日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠


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