連載[第2回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第2回
令和7年7月29日
摺鉢山の頂上から見た硫黄島

■連載[第2回]
「やっと遺族になれた気がしました」その2

●自ら志願して出征した35歳の夫に泣いてすがった妻
 今井さんが母親とともに、出征前に祖父と祖母が暮らしていた北海道に向かったのは、母親が亡くなる13年前のことだった。襟裳岬を東に回った広尾町である。祖父・相澤五郎は一族で水産会社を手広く経営し、家は裕福だった。ニシン漁が盛んで多くの船を持ち、今も地元にはその会社が使っていたという倉庫が残っていた。「相澤家」の名前を憶えている人もいて、当時、その会社で働いていた人に戦前の様子を聞くことができた。
 相澤五郎は、召集ではなく自ら志願して兵役についていた。第109師団だった。35歳、昭和19年8月のことだ。敗戦の1年前である。妻である祖母は、子供が4人もいるのに、と反対した。泣いてすがった、という。しかし、祖父は、町の若い人が戦地に行くのに、いてもたってもいられない、自分が何もせずにはいられない、との意志を貫いた。
今井さんの母親には3人の兄がいた。出征は母親が1歳にもならない時だった。
「志願していなかったら、祖父はそのまま北海道で生をまっとうしたかもしれません。そうすると、母の人生も違っていて、私は生まれていなかったかもしれません。だから複雑ですよね」
 そして、敗戦。祖父が戻ってくることはなかった。残された祖母は、いくばくかの金銭を「相澤家」から渡され、4人の子供と共に山形県の実家に戻ることを余儀なくされた。会社の存続は難しく、祖父の一族は帯広へと移住した。それ以来、親戚づきあいはない。

●地続きの戦争。「遺族」という言葉は遠いものになってしまったが……
「母は、山形県の遺族会には入っていたんです。でも、山形の人は満州に行った人が多かったようです。話が合わないと言っていました。北海道の人は硫黄島に赴任した人が多かったといいますから。10年くらい前には武道館で行われる8月15日の戦没者慰霊祭に伯父と一緒に参列もしているんです。
 ですから、この渡島事業のことを知り、母に代わって、今回、ここに来られたのは良かったです。遺骨は帰ってきていませんから、お墓参りのような気持ちで来ました。今度の初盆の法事の時にでも、私の兄弟や伯父、母方の従兄弟に、今回のことを報告します。こういう島だったと、そして、おじいさんは、そこで亡くなったんだと、そう言い伝えるのが私の使命だと思っています。祖父がいなければ、母がいなければ、私はここにいませんから。
 今日の慰霊祭では、北海道のミネラルウォーターとおまんじゅうをお供えしました。ちょうど家の近所で売っていたものですから。おまんじゅうをお供えしたのは、伯父たちが誰もお酒を飲めず、おそらく祖父も飲まなかっただろうと思ったからです。
 やっと遺族になれた気がしました。硫黄島には、機会があれば、また来たいと思います」
「やっと遺族になれた」という言葉が印象的だった。
令和の時代に生きる我々にとって、昭和の戦争の「遺族」という言葉はどこか遠いものになっている。(一財)日本遺族会の会員数も減る一方だ。しかし、あの太平洋戦争から80年ほどしか経っていない。戦争は地続きのままなのだ。
 それでも、多くの場合、遺族には不可抗力でなるものであって、「なることができた」という成就の意味では使われない。もちろん、ここでは、母の意志を継いで祖父の亡くなった場所に来ることが出来た、という意味において使われているのだろう。
後日、さらに話をうかがうべく酒田へと向かった。
(次回更新:8月5日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
祖母・マスミと「相澤家」との間の関係は途切れていたはずだったが、遺品を整理すると本家の葬儀に香典を送ったことに対する御礼の手紙が残されていた

天山慰霊碑で花を手向ける今井さん。令和4年8月当時はまだコロナ禍の中で、皆がマスクをしていた(写真には一部修正を施しています)
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