連載[第12回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第12回
令和7年10月7日

■連載[第12回]
A級戦犯容疑で収監された政治家・作家の孫として その6

●セクハラ・パワハラは当たり前。イジメもすごい
 福田さんは、昭和46年(1971)に東京で生まれた。日本の高度成長期の真っただ中である。父・純吉が42歳、母・愛子が39歳の時だった。父親は専修学校である文化学院を卒業し、大阪で産経新聞社に入社。その頃は、東京で政治部記者として働いていた。
 両親は晩婚だった。父親は、母である能婦と祖母と同居していた。祖母の介護もあり、結婚は半ばあきらめていたところ、祖母が他界。40歳を前にして、以前、仕事で出会った愛子さんと偶然に再会した。愛子さんは、銀座のテーラーメイドの洋装店でパターンナーなど縫製関連の仕事をしていた。つい婚期を逃してしまっていたが、前年に盲腸の手術で抗生物質のアレルギー症状により生死の境をさまよったことから、結婚を意識。お見合いなどを始めた時期だったという。死産や流産を経て、やっと生まれたのが福田さんだった。
 福田さんは地元の小学校を卒業後、東京郊外の私立中学・高校を経て、演劇を志し、桐朋学園大学短期大学部芸術科演劇専攻(当時)に入学した。父親の「大学は出ておけ」という言葉と、演劇の実地の授業が受けられるという理由からだった。卒業後は文学座附属演劇研究所で1年学び、プロダクションに所属。役者としてテレビドラマや映画、商業演劇などに出演した。
 時代はバブル絶頂期だったが、福田さんにとってはバブル崩壊より一足早い転換期となった。
「やっていけないな、と思い始めていたんです。役者としてなかなか芽は出ませんし、今でこそ、セクハラ・パワハラなんて言葉が当たり前になってきましたが、あの頃は、まさに日常茶飯のことでした。裏方は徒弟的な側面もあってイジメもすごい。そういったことに耐えていかないといけないんです。芸能界は華の世界ですが、その分、影も濃かったです」

●中国語とキリスト教
 現在、福田さんは「中国語翻訳者」と「脚本家」として仕事をしているが、その道のりは偶然に彩られているようにも見える。
 父親は結婚後しばらくして産経新聞社を退社。出版社を立ち上げるも、病を得たことなどもあって失敗。紆余曲折があり、旅行代理店を立ち上げると、バブルの波にも乗り、従業員を雇用するほどになった。ちょうど、福田さんが役者を続けることが辛くなりかけた時期だった。人手不足ということもあり、代理店の仕事を手伝い、ある時、中国ツアーに随行した。そこで「中国語」に出会い、好きになってのめり込んでいった。
 その頃、キリスト教との再会もあった。福田さんには地元の小学校に通っていた幼少時、ひとりの仲のいい友達がいた。その子の家族は熱心なクリスチャンで、教会に行くことを誘われた。しかし、その教会はかなり離れたところにあった。教会からバスが出ていたが、頻繁には行けなかった。地元から離れた中学・高校に通った福田さんは、いつしか幼馴染と疎遠になった。ところが、偶然に再会し、「また、おいでよ」と教会に誘われたのだった。
「これからどうしよう」と思っていた時である。教会には馴染みがあった。子供の頃には読まなかった聖書を手に取ってみると心に沁みた。励まされていると感じた。「ちゃんと読んでみようかな」と思った。福田さんはプロテスタントのクリスチャンとなった。
 中国語の学校に入ると、中国の人とも気が合った。忙しい先生を手伝う形で、ビジネス書などの翻訳の仕事をしないか、と誘われた。中国語の検定資格をもっていても、実績がないと仕事にはつながらない。実績を重ねることに精を出した。時代はバブル崩壊後。父親の代理店もその波をかぶり、福田さん自身も地道に仕事をしていかなくてはならない状況となっていた。

●東京から長崎へ。そこは猪が出るようなところだった
 また、夫・福田一郎さんとも教会で出会った。同い年の二人は平成12年(2000)に29歳で結婚した。夫は長野県出身だった。夫の父は長く農業大学校に勤めていて、「農場のような環境」で育ってきた。そのせいか、大学を出ても日本全国を放浪するようなことをやってきた。結婚当初は、IT関連の企業に勤めていたが、東京は子育てしにくいし、生きづらかった。
 福田家には、長崎県に大正時代からの家があった。義父はそこで育ったが、当時は誰も利用していなかった。そこで、その長崎の古民家をリフォームして暮らそうか、ということになった。裏は山で猪が出るようなところだった。長男・耕平君が2歳、長女・祐さんが1歳で、夫婦が33歳の時である。
(続きは10月14日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
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