連載[第8回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第8回
令和7年9月9日

■連載[第8回]
A級戦犯容疑で収監された政治家・作家の孫として その2

●手書きのノートに新聞の切り抜き……次々と出てくる硫黄島に関する品々
 ほとんどの人が赤紙に応じて勇んで戦場へと向かった戦時中である。家族も親戚も「万歳!」で送り出した。しかし、誰もが決して行きたくはなかったし、行かせたくはなかった。池崎家ではもっと複雑だ。父親は日本の戦争を思想的にも支えていると目された政治家だった。大学生として徴兵が猶予されていた負い目もあったようだ。「国難」に立ち向かいたいという若者らしい気概もあった。修吉は妹弟を励ます手紙もたびたび出していた。
 史料を探していくと、他にも伯父関連のものが出てきた。通信兵だった伯父の「軍極秘 暗号教範 通信法 第一分隊第二小隊 池崎修吉」と表書きされた直筆ノートもあった。そこには通信方法などが鉛筆でびっしりと書き込まれ、赤や青鉛筆で印がつけられていた。なぜ、こういうものが残っているのか見当もつかなかった。
「硫黄島玉砕當時の朝日」と表に大きく墨書された封筒には、「あゝ硫黄島敵手に帰す 栗林指揮官先登に全員突撃を敢行」との見出しがある朝日新聞の古びた切り抜きが入っていた。封筒の裏には、大阪の住所・電話番号と共に「池崎商店」と印刷されているので、祖父が墨で書いて保存していたものに違いない。
 硫黄島に慰霊に出かけた時の父親の写真アルバムもあった。日付を見ると1981年(昭和56年)10月31日で、父が52歳の時である。船で硫黄島に上陸している様子などが写されていた。硫黄島戦からの生還者や遺族で組織された硫黄島協会主催の慰霊団に参加していたようだ。花を手向けられた「硫黄島戦没者の碑」の写真には、そこにあるはずもない観音像の影が映っている。この写真を見せられた時の「怖い話」の一方で、何も分からず「海だー」とはしゃいでいた記憶が甦ってきた。福田さんが10歳の頃のことである。父親は、硫黄島での慰霊を何度か果たし、平成21年(2009)に79歳で亡くなった。



●ポロポロとこぼれ落ちる涙の行方は……
 福田さんは、父親の兄・修吉が硫黄島で亡くなったことを以前から知ってはいた。だが、そのことに特別な興味をもったことはなかった。それが、実際に伯父によってしたためられた戦場からの便りを見て胸が締め付けられた。家に残されていた品々には、どこか異世界を覗く感じがしながらも、重い歴史の断面を垣間見る思いがした。映画『硫黄島からの手紙』も見てみた。現地へ行こうと心に決めた。渡島の1年前の出来事だった。
 しかし、実際に来てみても、硫黄島は戦跡をかろうじてとどめ、ただそこにあるだけだった。伯父の輪郭も見えてはこない。家にあった「史料」が何を語っているのか、手紙の内容以上のことを知ることはできなかった。
「伯父は祖父に、自分の貯金で弟に教育を施してくれ、と書いています。祖父は戦争に加担した人間ですが、自分の子供の遺志に報いることができたのでしょうか。また、父は、さらには、その娘である私たちは、父の兄のその遺志に報いる生き方ができているのでしょうか。そう考えると……」
 福田さんの目からは涙がポロポロとこぼれ落ちている。
 母親を見つめていた娘の祐さんが、その背中をさするようにして言った。今年の春、大学生になったばかりである。
「母から話を聞いて、硫黄島に来たいと思いました。私は長崎で育ちましたから、原爆のことなど平和学習には力を入れて取り組んできました。広島にも行きました。ですから、硫黄島のことも調べて、もっと平和について学んでみたいと思ったんです。でも、実際に戦地を目の当たりにして圧倒されました。このことは、資料館では分かりません。戦場が想像できた思いです」
(続きは9月16日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
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