連載[第25回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第24回
令和7年12月30日

■連載[第24回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その9

●こんな風に思ってたんや……
 史子さんが、自らの過去を話し出したのは、子供たちが成長してからのことだった。といっても、何かの話のついでだ。陽子さんも嫁いだ後に、何とはなしに聞いていた。
「その時はこんな風に苦労してとか、こっちに来ておばあちゃんがこんな風に言っていたとか、おばあちゃんがどんな気持ちでここに嫁いできたのかなど、ちょこちょこと聞かされてました。言い方はやんわりしたものでした。今はけっこうな暮らしさせてもらってるけど、こんな苦労もあったよ、みたいな感じで、泣き言や恨み言めいたことはなかったです」
 それが、認知症になって変わった。
「すごく辛かったことを口にするようになり、こんな風に思ってたんや、というようなことを言うようになってきました。やはり、決められた道だから、ずっと耐えてきたんだと、姉と話すようになりましたね」
 その内容は主に祖母、つまり史子さんの母親である瑳巴子に対することだった。

●なぜ、私が家を出されるのか?
 史子さんが、「見門のおじいちゃん」のところで厳しく育てられ、高校生の頃から吉川家に出入りするようになったことは先述した通りだ。
「母は、おばあちゃんから『私がいたから、あんた、この家に来られたんやで』と、そんなふうに言われたこともあったそうです。ある時は、『私は気を遣ってここでは一人しか子供を産まなかったのに、あんたはよくも大きい顔して3人も産んだな』って、実の親にそんな嫌味を言われるとは思わなかったと……」
 祖母が、後妻として吉川家に来て、気を遣い辛い思いをしたということは以前から聞いていた。しかし、陽子さんたち孫からすると「おばあちゃんはおじいちゃんに対して威圧的で、おばあちゃんの天下だったように思っていた」。
 若い時はきれいで頭もよく、女学校の成績はトップクラスだったという祖母。夫だった源一も成績優秀で、エリート同士の結婚と騒がれた。それなのに離縁して里に帰らせられたことが相当悔しかったようだ。源一の母である栗惠も優秀だった。
「お父さんもお母さんも賢かったのに、お前はアホやってさんざん言われたって、母は半分笑い話のように言ってました」
 家事一切を行なっていたのは母だった。一方で、祖母は自分の娘(母の妹)には一切やらせず、勉強だけをしておけばいいと言って育てた。
「母は私たち子供が思っていた以上に大変な人生を過ごしてきたと感じています。この家に来て、家を守るためだけに我慢してきたんだと思います」
 最近は、認知症になったため、ショートステイなどで施設に行くことを勧めるだけでも「なぜ、私が家を出されるのか?」との言葉が返ってくる。その語気に込められた意味もなんとなく分かってきた。
「自分自身、私は吉川の家を守って来た、とポロっと言うようになったので、どこかでそう徹する心意気を持っていたのでしょう。むしろ自負があったのだと思います」

●父と人間魚雷「回天(かいてん)」展示施設の思い出
 陽子さんが、奈良県の大和郡山(やまとこおりやま)で生まれたのは昭和44年(1969年)のことだった。高度経済成長期真っ盛りの頃である。
 地元の公立小学校に入り、2年生の時に山口県の徳山市(現・周南市)の学校に転校した。父親の転勤のためだった。周南市の臨海コンビナートの夜景は今も有名だが、その姿は大和郡山ののどかな風景とは違って都会に見えた。
 関西弁を笑われ、少しいじめられもしたが、そのようなことでへこたれる性格ではなかった。驚いたのは、工業団地の景色だけではなく、学校で国旗掲揚が行われることだった。全校生徒による朝礼では国歌・校歌斉唱も行われた。奈良の学校ではなかったことで、いたずらに国旗掲揚台に上って校長先生に叱られた。
 平和教育が行われていたことも新鮮だった。その一環で映画「はだしのゲン」を学校で見た。「子供心に怖く、こんなにも人が死に、また、差別を受けるんだ」と思った。修学旅行は広島で、原爆の「平和祈念資料館」を見学し、「以前、姉が半泣きで話していたのはこれか」と衝撃を受けた。
 よく覚えているのは、夏休みに家族旅行で「回天記念館」に連れて行ってもらったことだ。徳山湾に浮かぶ大津島(おおづしま)には、戦前に人間魚雷「回天」の訓練施設があった。その地に、搭乗員の遺書や関係資料なども展示して、昭和43年(1968)にオープンしたのが「回天記念館」だった。
「父は、昭和の企業戦士で、夏休みに家族でどこかに行くくらいしか触れ合いはありませんでした。あまり家におらず、口うるさく言われることもなかったですが、母の父が戦争で死んだことは折に触れ、口には出さずとも、なんらかの形で伝えようとしていたのではないかという気はしています。父は毎年、終戦記念日に護国神社に参拝に行ってましたしね」
 護国神社とは、国家のために殉難した英霊を祀っている神社である。

●校内暴力からバブル景気まで。世の中の流れに沿った学生時代
 中学入学時に大和郡山に戻ることになり、地元の公立中学校に通うことになった。山口では生徒会活動などもやっていたが状況は一変した。校内暴力が吹き荒れていたのだ。時はまさに「積木くずし」がドラマなどでブームになっていた。
 校舎の窓ガラスは全部割れ、何かが燃やされていたり、校内で自転車を乗り回している生徒がいた。非常ベルはしょっちゅう鳴り、教師と生徒は殴り合い、他校生が大挙してケンカに来た。授業はすぐに中断されて休みになった。そんな環境の中、勉強はしなくなった。
 そのため高校は、公立に入るのは難しく、大阪の新設の私立に自宅から通った。進学校だったが、毎日が楽しければいい、という感じで過ごした。時代は1970年代後半、ちょうど景気も良くなり始めた頃で、末っ子なので何も言われず、このままなんとなく大学、就職と普通に進んで人生が開けていくのかなと感じていた。バブル景気直前で、すべてが上向きの雰囲気だった。
 関西外国語大学に入学した。通っていた高校は英語に特化していて、英語だけが得意だったのだ。しかし、今度は英語ではなく部活にのめり込んだ。体育会のヨット部で、週末はほぼ琵琶湖に通った。リクルート系の会社に就職し、難波支店に勤めた。何も考えずに給与の額だけで決めた。まさに時代の波に乗ったかのような若い頃だった。
「結局、家から出してもらうことはなく、一人暮らしはしていません。そのあたり、結婚も見合いでないとダメ、という家でしたから。もう家柄中心ですよね。姉もそうで、兄はもちろんそうなんですが、お見合いはたくさんしましたね」
 26歳で会社員の夫と結婚した。働いたのは3年半。夫の母親と同居した。義父は既に他界していた。そして2男1女に恵まれた。育児は大変ではあったが、義理の母が協力してくれ体力的には助かった。
(続きは1月6日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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