連載[第23回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第23回
令和7年12月23日

■連載[第23回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その8

●母の再婚後、母の実家で育てられた史子さん
 その後、令和4年の訪島事業でお会いした松井賀洋子さんと杉岡陽子さん、そして、吉川将広さんのそれぞれに、再度、会って話を聞いた。3人にとっては、瑳巴子さんは祖母、史子さんは母にあたる。あらすじ的に記せば、その瑳巴子さんと史子さんが、戦後に辿った道とは以下のものだった。
 服部源一が戦死して3年後の昭和23年、瑳巴子と史子は、瑳巴子の実家である河合家に戻った。河合家は規模の大きい農家だった。その河合家は、先述したように、源一の母・栗惠の実家でもあり、瑳巴子の父は栗惠の弟の河合和三郎だった。
瑳巴子は、その後、吉川家に嫁いだ。その相手とは1歳年上の吉川英太郎という人物で、やはり再婚だった。英太郎の先妻は病気で亡くなり、その先妻との間に長男と次男がいた。その長男が吉川英昭で、後に史子と結婚するが、その先妻の次男は親戚の家を継いだ。
 瑳巴子は吉川英太郎と結婚したが、その時、史子は母親と一緒に吉川家に入ったわけではなかった。史子は河合家に残ったのである。そして、高校生になった時くらいから家事手伝いのような形で吉川家に通った。一方、瑳巴子と吉川英太郎の間には、昭和26年(1951)に娘が生まれた(系図2参照)。
 そして、史子と吉川英昭の間に、昭和39年(1964)に賀洋子が、昭和42年に将広が、昭和44年に陽子が生まれた。現在の松井賀洋子さん、吉川将広さん、杉岡陽子さんである。年齢差はそれぞれの間で3歳と2歳で、長女と次女は姓が変わった。『追悼録』は母親からきょうだい3人にそれぞれに渡されたものだった。
祖母・瑳巴子、母・史子と同じ屋根の下で暮らした3人。同じ環境で育ってはきたものの、きょうだいそれぞれで、祖母と母の確執など吉川家で見えていた風景は少しずつ異なっていた。

●次女・陽子が見た風景
 3人のうち、最初にお会いしたのは杉岡陽子さんだった。日程の都合上、一番早く会うことになったのだ。杉岡さんは、大阪市の南東部・東住吉区の住宅地の一角にお住まいだった。
最初にお会いしてから約1年後の令和5年、まだ夏の盛りといってもいい9月中旬だった。二階建ての立派な屋敷の玄関脇にある応接室で話を聞いた。冷房がよく効いていた。ここからは、杉岡さんではなく陽子さんと表記する。吉川家のことが話の中心になってくるからだ。
終始、穏やかな口調で、時折、笑みを浮かべながら話す陽子さん。祖母・瑳巴子と母・史子さんのことについて、高校生の頃にあったある出来事が鮮明に記憶に残っているという。なぜ、そういう状況になっていたのかは覚えていない。ただ、祖母が母親にすごく辛くあたっていて、陽子さんはつい祖母に言った。「なんでおかあさんにだけそんなこと言うの」と。
というのも、祖母が後妻として吉川家に入り、生んだ娘に対してはすごく甘かったからだ。母親にとっては8つ違いの異父妹で、陽子さんにとっては叔母にあたる。その「吉川の娘」は景気が良かった時期でもあり、「蝶よ花よ」で育てられた。祖母にとって母親は、「自分の娘やし嫁やし、使い勝手が良かったんだろう」と、母は後になって言った。当時は、そういうことをなんとなく感じているだけだったが、その時は祖母に食って掛かったのだ。すると、祖母は怒った。「私はこの子を小さい時に自分で育てられなかったんだ。そんな悔しい気持ちがあんたには分からんだろう」と。
衝撃的だった。そんな風に思っていても、ままならない親子関係があるのか、と思った。やっと一緒に住めるようになっても、うまく愛情を注げない。複雑な思いだけが心に残った。

●実家の敷居を決してまたがせなかった祖父
 話は瑳巴子さんが、戦後3年目に服部家を出されて、実家に戻るところに遡る。
 源一を亡くした服部家では、次男・源二がいたために、後に家の財産を直系の史子にも渡さなくてはならなくなることを危惧し、瑳巴子を離縁して史子と共に実家へと戻したのだという。既に終戦の昭和20年12月1日に源二は7代目の社長に就任し、翌21年の2月には妻・和子と結婚していた。実家へと戻される3年前と2年前の出来事だ。
 瑳巴子の父・河合和三郎は怒った。先述のように源一の母・栗惠と瑳巴子の父・河合和三郎は姉弟で、源一と瑳巴子はいとこ同士だった。以来、和三郎は栗惠に実家の敷居をまたがせることはなかった。史子さんから陽子さんが聞いた話という。
「だから、おばあちゃんは桜井(服部家)の話は一切しませんでした。また、後妻に行かせられたことも、プライドを傷つけられたと悔しがっていたと聞きました」
 なぜ、祖母が祖父・吉川英太郎と再婚することになったのかは分からない。だが、母親は吉川家に連れていかれることはなく、祖母の里である河合家で和三郎に育てられるのだ。母親にとっては母方の祖父になる。この和三郎は、理由は分からないが「見門(みかど)のおじいちゃん」と呼ばれていた。おそらく地名などに由来するものだろう。
「だから、母は河合史子として育ってるんです。見門のおじいちゃんに、一人でも生きていけるようにと、本当に厳しく育てられた、と言ってました。それは感謝していると」
 そして、史子さんが高校生になった頃、吉川家のお手伝いといった感じで、癌になっていた祖父(瑳巴子にとっての舅)の看護や吉川家の田んぼの手伝いなどを行うことになる。通っていた高校が吉川家の近所だったのだ。学校の帰りに手伝いに行ったのか、吉川家から学校に通ったのかは分からない。河合家と吉川家で半々の生活をしていたようだ。
「おばあちゃんが、自分で育てられなかった母を手元に置きたかった部分もあるんだろうとは思うんです」
 そして、いつしか吉川家の長男であった英昭との結婚が決まった。お互い、いい歳頃だったし、家同士で決められたことだろうという。
(続きは12月30日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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