連載[第24回]

硫黄島が繋げてくれたご縁 第1回

旧島民の孫として 文/西村怜馬
令和7年12月26日
 私の母方の祖父母が硫黄島出身で、2015年に亡くなるまで、小さいころから祖母からよく硫黄島の話を聞いていました。そんな影響で「いつかは硫黄島に行ってみたい」と思うようになりました。
 現在、43歳の私が最初に硫黄島に行ったのは、今から20年ほど前になります。基本的に硫黄島へは、戦前に住んでいた旧島民の墓参や現地で亡くなった遺族の方の慰霊、遺骨収集でしか行くことができません。祖母の付き添いで硫黄島墓参に参加して以来、20回余り訪島の機会に恵まれました。その間、硫黄島がつなげてくれたご縁によって、たくさんの方々とお会いすることができました。
 硫黄島は、1944年の強制疎開により島民の暮らしが終わりを迎えるまで、約半世紀にわたって開拓が行われ、繁栄した南の島です。よく「旧島民1世、2世、3世」という言い方をしますが、旧島民1世は硫黄島で生まれ強制疎開の時まで島で暮らした人たち、2世は戦後生まれで1世の子供世代、3世は1世の孫世代を意味します。
 そんな中、硫黄島墓参を通じて、疎開を余儀なくされた旧島民1世、小笠原村役場の方、東京都総務局、現地の自衛隊の方々など、色々な方面の方とお会いし非常によくしていただき、感謝しています。なぜ、このような様々な方面の方々とお会いできるかといいますと、硫黄島は東京都小笠原村に属し、自衛隊の基地があるからです。
 特に2018年に発足した「全国硫黄島島民3世の会」の会長を務めるようになってから、日常では決してお会いすることができない方々ともお会いする機会に恵まれ、今では皆さんのご協力のもと、硫黄島の昔の歴史を記録し広める活動や、1世の人達の思いを受け継ぐための活動を推進するまでになりました。こういった旧島民に関連する会については追々、詳しく触れていきたいと思います。

 話を最初に戻しますと、一番はじめの墓参の時に思いがけない奇跡的な出来事がありました。
「奥田芳太郎(よしたろう)」。この芳太郎さんは、祖母の弟で硫黄島に残り戦死しました。「菊池謙二」。この謙二さんは、祖父の弟で、芳太郎さんと同じく硫黄島に残り戦死しました。
 硫黄島は1945年2月に米軍が上陸し、太平洋戦争の激戦地として知られています。硫黄島に住んでいた島民の多くは1944年の強制疎開で島を離れましたが、10代後半から50代の男子の一部、100名余りが軍属として島へ残り、そのうち80名を超える島民達が犠牲になりました。あまり知られていませんが、硫黄島の戦いで、犠牲になった島民達がいたのです。

 硫黄島墓参は、基本的に自由に島内を散策、というわけにはいかず、マイクロバスに乗って島内の数か所を巡ります。私が初めて訪島したときも同じでした。ただ、この時、少し違ったのは、墓参のすべての行程を終えて摺鉢山から航空基地へ向かってバスが走っている時でした。祖母よりも1学年年上の旧島民で、当時、硫黄島の事を非常に詳しく調査されていた長田幸男(おさださちお)さんが、「ちょっとバスを止めてください」と突然言われました。
 バスが止まったのは、「204設営隊陸揚作業壕」。この場所は、硫黄島の南海岸の近くにあり、米軍が上陸した浜を上がったところにあります。
 長田さんは、静かに、「ここで旧島民が亡くなり、埋葬されたことがわかりました。奥田芳太郎、菊池謙二・・・」と祖母の弟の名前と、祖父の弟の名前が立て続けに発せられました。祖母は驚いて「私の弟だよ!」「初めてだよ。こんなこともあるんだね」、と驚いていました。日本側で約21,900人が亡くなった硫黄島では、亡くなった場所が分かっている人がほとんどいない中、奇跡的な話であり、私の初めての硫黄島墓参で衝撃的な出来事で、どこか今日の活動に繋がる運命的なものを感じました。
 後に聞いた話では、米軍上陸より前の偵察飛行の際に飛行機から撃たれてしまったということです。硫黄島で戦った旧日本軍の兵隊さんや軍属の人達の中で、埋葬された場所が特定されている人は、極めて稀です。上陸前ということで、埋葬してもらえる余裕があったようです。

 できることなら2人の遺骨を掘り起こして祖母と同じお墓に埋葬してあげたい、でも2人にとって硫黄島は故郷。ちゃんと島で埋葬してくれたのだからそのままのほうがいいのか。答えが見つからないまま、硫黄島を訪島するときには「204設営隊陸揚作業壕」の道標の前で手を合わせています。

 ところで、芳太郎さんは祖母から聞く硫黄島話でもよく登場していました。「優しかったんだよ、水を運ぶのとか手伝ってくれた。写真があればねー」と。硫黄島は井戸がない島。生活に使う水や飲み水はすべて天水を利用してきました。家の庭にモルタルなどでこしらえたお風呂より大きなタンクがいくつかあり、そこから水を運んで使っていたそうですが、その水汲みを芳太郎さんが手伝ってくれていたそうです。
 どんな人だったのだろう・・・ずっと今まで気になっていましたが、長きに渡り芳太郎さんの顔が分からずにいました。

 そんな話が急展開するのは、今年に入ってからのことです。全国硫黄島島民3世の会は、硫黄島出身の祖父や祖母、または祖父母にもつ孫、さらに両親の子供など、3世や2世のメンバーが中心の40人ほどの会になります。その中には、私の親戚もいるのですが、そのうちの1人、私の"はとこ”の家から、「もしかしたら芳太郎さんかもしれない」写真が見つかったとの嬉しい知らせがありました。
 芳太郎さんを知っている人に見てもらいたい。と思っていたところ、奇跡的に芳太郎さんをよく知っていた祖父の従姉妹にあたる1世の方がお元気で、すぐに写真を見てもらうことができたのです。「芳太郎ちゃん、懐かしい」。芳太郎さんは、とても心優しく働き者で、相撲も強かったそうで・・・。硫黄島では、島のお祭りや父島の島民との親善試合を楽しむほどお相撲が盛んな島だったと聞いています。

 戦争がなければ、芳太郎さんが生きていれば、直接会えたかもしれない。そんな思いもありますが、硫黄島が繋げてくれた色々な人達とのご縁の力は凄まじく、遠い昔の出来事でも、みんなで協力すれば色々な裏付けをもとに鮮明なものとして記録することができるんだ、ということを実感する出来事でもあります。

そんな硫黄島のご縁で、今回、この場で硫黄島のお話をご紹介でき、大変嬉しく思います。今後、色々なエピソードと共に、硫黄島のことをご紹介できれば幸いです。

●西村怜馬(にしむらりょうま)/1982年生まれ。戦時中に疎開した島民1世の祖父と祖母を持つ。今年10月から「全国硫黄島島民の会」会長も務めている。



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