
■連載[第22回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その7
●挟まれていたある新聞の切り抜き
筆者には気になることがあった。お借りした『追悼録』には、平成24年(2012)8月14日付の朝日新聞奈良版の記事が、きれいに切り抜きされて挟まれていたのだ。
「戦後67年 手紙が語る戦争」と題されたもので、見出しに「硫黄島の息子へ 母からの一通」「時を超え 新たな絆運ぶ」とある。
内容は、栗惠が硫黄島の源一に出した手紙にまつわるものだった。米海兵隊員がその手紙をアメリカに持ち帰り、収集家がそれを骨董市で入手。木更津の郵便局の名が記されていたため、同地の国際交流協会に問い合わせがきた。協会は、先の『追悼録』が刊行されていたことを突き止め、源二の息子と娘に問い合わせが来たのである。
そのアメリカの収集家は、児童養護施設で育ち、実の父からもらった手紙を大事にしていた。一通の手紙が持つ力を認識していたため、手紙の主を探そうとしたのだという。
手紙を返してもらったお礼に、源二の孫がアメリカに向かった。その孫も『追悼録』を読み、大伯父である源一に親しみを覚えていたのである。収集家と源二の孫の交流はその後も続いていて、「時を超えた新たな絆」という内容で記事は締めくくられていた。紙面には、その手紙と『追悼録』に掲載されていた栗惠と源一の写真も転載されていた。
A4サイズほどの記事が、あたかも大切なものであるかのように、きれいに二つ折りにして挟まれていたのだ。
●見たことがない硫黄島のテレカと「A View of Mt.SURIBACHIYAMA」
筆者が読んだ『追悼録』は、源一のひ孫である吉川智紀さんから借りたものだった。『追悼録』は親戚縁者に配られていた。ということは、お借りした『追悼録』は、吉川家にあったもので、史子さんが所有していたものに違いない。それを、史子さんの息子で、新型コロナ感染症に罹患して渡島を断念した吉川将広さんが智紀さんに薦めたものだろう。
そうであれば、朝日新聞の記事を切り抜き、『追悼録』に挟んだのは史子さんだった確率が高い。史子さんにとって服部家の位置づけは、決して小さいものではなかったことになる。
この『追悼録』には、海をはさんだ摺鉢山と硫黄島の日の出の写真がプリントされた2枚のテレホンカードも挟まれていた。摺鉢山のプリントには、ご丁寧に「A View of Mt.SURIBACHIYAMA」と白抜きで題字されている。さらには、このテレカは、「Iwojima」という題字に、滑走路など硫黄島の当時の地図などが印刷された紙製のパッケージに収められていた。
筆者は、このようなものを今に至るまで見たことがない。それはともかく、これも史子さんが慰霊の記念品として保存していたのだとすれば、その思い入れが推察できるのだ。

●3度目の正直
その翌年、令和5年の訪島事業で、吉川将広さん(55歳)に会うことができた。今度は一人で参加されたのだ。この日は、例年以上に厳しい暑さで、案内する自衛隊員さえ「風もなく特別に暑いと感じる」というほどだった。行程の途中、諸事情から自衛隊の施設内で休憩した時に吉川さんに感想を聞いた。
「言葉にするのは難しいんですけど、硫黄島に着いて飛行機を降りる時、涙が出そうになりました。やっとおじいさんに会いに来ることができたんだと」
実は吉川さんにとってこの渡島は「2年越し」どころか「3度目の正直」だった。祖父が硫黄島で亡くなった、という事実は子供の時から聞いてはいた。しかし、その硫黄島のことが意識に上って来たのは、政治家で作家の青山繁晴氏がテレビで硫黄島について話していたのをたまたま聞いて以来だった。
「島の地下にはまだ多くのご遺体が残されたまま」といった話は心に刺さった。吉川さんが40歳代中頃のことだった。そして、平成27年(2015)に、昼の情報番組が「戦後70年特別企画」として硫黄島から中継を行った。それを見て、「なんで僕らは行けないんだ」と思い、ネットなどで検索するようになって、この訪島事業に出会ったのである。
初めて申し込んだのは令和元年(2019)だった。しかし、仕事の都合で行けなくなり、翌年からはコロナ禍により事業自体が中止となった。
「硫黄島への思いは、10年以上ありました。靖國神社にも、毎年8月15日に、10年くらい参拝に行っていたんです。渡島は2回もキャンセルになり、しかも、昨年は、私だけが来られなくなった。祖父から、お前は来るな、と言われているような気もしていたんです」
●認知症になっていた史子さん
吉川さんにとっても、印象的だったのは摺鉢山だった。
「摺鉢山から眺めていて、あの辺で撃たれたんだと思うと、ついつい拝んでいました。ただ、写真で見ていた推定地より、ずいぶん内奥に移動した感じはしました」
今も火山活動が続く硫黄島は隆起が著しい。陸地の面積は大きくなり海岸線はどんどん広がっているのだ。
「今回、硫黄島に行くに際して、息子からは、花を用意しようかと言われ、姉からは、祖父が祖父の姉に出した手紙を新たに入手したということで預かってきました。妹からは、しっかり参ってきてや、と菓子を渡されました。昨年には、姉、妹、息子から硫黄島の写真を見せられ、こんなところだった、と聞かされていましたけど、実際に来てみて、本当に感じるものがありました」
吉川さんは、一瞬、考えるようにして話を続けた。
「昨今は、認知症になった母親を施設に入れ、当人からは『なんで、私、こんなところに』などと言われ、そのため寂しがっている父親を、きょうだい3人でフォローしている状態なんです。父親にも認知症の症状が出始めています。そういった状況も、こんなにも何かを感じる理由かもしれません」
吉川さんに朝日新聞の切り抜きのことを尋ねてみると記憶にないという。『追悼録』は10年ほど前に読んだが、その時は、特段、気に留めなかったようだ。しかし、私が借りた『追悼録』は、やはり吉川さんの母親・史子さんが持っていたもの、ということが分かった。そして、吉川さんもテレホンカードについては覚えていた。
また、史子さんが、服部家の人とともに護国神社に参拝に行くというので、待ち合わせの駅までクルマで送ったことがあるという。史子さんに認知症の症状が出る数年前のことだった。
吉川さんには再会をお願いして、詳しく話を聞かせてもらうことを約束した。
(続きは12月23日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
