連載[第29回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第28回
令和8年1月27日

■連載[第28回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その13

●大のおじいちゃん子
 ところで、賀洋子さんには、祖母・瑳巴子と祖父・吉川英太郎の結婚について覚えていることがあった。子供の時に、「どうしておばあちゃんと結婚したの?」と祖父に聞いたことがあったのだ。
 すると、「自分の足で探しに行ったんよ」との返答があり、「よー見つけたな」と返したという。賀洋子さんは大のおじいちゃん子だったのだ。
「おじいちゃんと私は親密でした。『おじいちゃん、おじいちゃん』って言うて、初めて絵本を買ってもらったのもおじいちゃんです。『かぐや姫知らんのか?』って聞かれて、『知らん』言うたら近所の本屋に連れて行ってもらったのも覚えてます」
 賀洋子さんが生まれたのは昭和39年(1964)だ。初孫ということで、祖父と祖母に可愛がられ典型的な内弁慶だった。祖母はプライドが高く、特に孫への思い入れが強かった。
小学校2年生の時だった。隣の子が遊びに来ていて、時計を見て「もう帰るわー」と言った。祖母は「時計読めるの?」と驚いた。賀洋子さんは、まだ読めなかった。吉川家は代々「庄屋の家(うち)」で、郡山城の外堀のすぐ横にある大きな屋敷だった。対して、遊びに来ていた隣の子は「小作の家」で、そのことを「小宅(こやけ)」と言っていた。それで、祖母が賀洋子さんに言ったこととは、「小宅の子に負けてどうすんのー!」だった。ちなみに、吉川家の別隣には「大庄屋の家」があった。

●誰も、私のおばあちゃんであることは分からない
 入学した郡山小学校はマンモス校で、後に、北と南の郡山北小学校と郡山南小学校に分かれるほどだった。授業参観には祖母が着物を着て来た。その時、教師の質問に対し、皆が手を挙げた時に、賀洋子さんは挙げられなかった。帰宅後、祖母は賀洋子さんに聞いた。「あんた、あの問題、分からんかったの?」。賀洋子さんが「分かってた」と言うと、火に油を注ぐ感じで怒られた。「おばあちゃん、恥ずかしかったわー!」と。
 当時のことを振り返り、さも怒られている感じのか細い声で賀洋子さんは言う。
「誰も私のおばあちゃんて、分からんって思いましたけど……」
 それでは、母親の史子さんはどうだったかというと、母親からも「1日1回」怒られた。当時は、ある育児書が大評判で、「1日1回日光浴」や「食事の量はこれだけ」など多くの事が推奨された。当然、すべてのことはこなせない。
 しかし、「しっかり育てなん、というばあちゃんからのプレッシャーがすごかった」という背景もあったようだ。なにしろ母親は吉川家に嫁入りする前、祖母から「あんたみたいなアホのコ、うちの家(吉川家)にもろてもらえない」と言われ続けてきたのだ。
 だからかどうかは分からないが、マンガは「悪書」で隠れて読んでいた。「長女ということもあったんでしょうけど、母は怖い存在でしたね」と賀洋子さんは言う。
「吉川という大きな家で」期待を一身に背負い、「おばあちゃんには、頑張れ頑張れ」「おじいちゃんには、可愛い可愛い」で「100点取ったら褒めてもらえて、100円貰えた」毎日だった。ちなみに、父親の出番はあまりなかったようだ。

●「あの頃は良かった」と母がつぶやいた山口時代
 6歳の時には大阪万博があり、父と母と「月の石」を見に行った。大変な人混みだったことくらいしか覚えていないが、そのチケットはアルバムに貼ってある。小学校の6年生で児童委員に立候補、この頃から内弁慶のところはなくなり、なぜか人前に出るのが嫌ではなくなった。
 中学1年生の2学期から山口の学校に転校したが、生活は音楽一辺倒になった。ピアノを始めたのは5歳か6歳の時。それも例の隣の子が習っているのがうらやましくて始めたことだった。しかし、練習嫌いでレッスンではいつも怒られた。ここでも後押ししたのは「おじいちゃん」だった。祖父はかつて小学校で音楽の教師をしていたのである。
 練習をさぼって遊んでいると、「練習したんか?」と声がかかった。目の前で弾くよう促され、間違いを指摘しては「もう一回弾いてみ」と、練習させられた。知り合いの娘さんが有名なピアニストで、リサイタルなどがあると連れていってもらった。楽屋へ行くと、きれいなドレスを着たその人が花束を分けてくれた。大阪などのコンサートホールでオーケストラの演奏に触れる機会さえ作ってくれたが、その頃は、むしろ帰途に食べる鍋焼きうどんが楽しみだった。
 山口の中学校は、ニュータウンに新設された学校で、一部はプレハブ校舎という急ごしらえのものだった。「吹奏楽部」はなく、同好会のようなものがあるだけで、楽器も揃っていなかった。他校の吹奏楽部が参加する市主催の音楽会には、教師に引率を頼んで有志で参加するしかなかった。そこで、吹奏楽部を作って欲しいと仲間と共に教頭先生に直訴した。同時に、楽器をかき集め、楽譜をアレンジし、練習の成果を自主公演という形で発表した。
 この時、自身の経験から、アドバイスをくれたのも祖父だった。また、当時、担当していたトランペットも、質屋を営んでいた祖父が融通してくれたものだった。そして、3年生になった時、吹奏楽を専門とする教師が着任し、新楽器一式も揃って吹奏楽部が発足した。
 この山口には、10年以上前に、母・史子さんと共に再訪した。夫が出張で福岡に行くことになり、ちょうど夏休みで旅行がてら車で送っていき、自らは山口大学で学び始めていた長男の下宿を覗くことにしたのだ。そこに母も合流した。久々に母と過ごすゆったりとした時間だった。およそ30年ぶりに徳山の町を歩き、「回天記念館」にも再び足を運んだ。その時、母は「あの頃は良かった」と言った。
「4年半の山口時代、母は専業主婦でした。父の会社関連やママ友とのつながりがあり、なんのしがらみもない自由な雰囲気の中で、母も楽しかったのではないでしょうか」
(続きは2月3日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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