連載[第28回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第27回
令和8年1月20日

■連載[第27回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その12

●長女・賀洋子が見た風景
 陽子さんにお会いした次の日、松井賀洋子さんにお会いした。松井さんは、橿原市にお住まいだった。ご自宅のすぐ東は高松塚古墳などで有名な明日香村であり、近くには丸山古墳や孝元(こうげん)天皇陵、天武持統(てんむじとう)天皇陵などもある。重厚で立派な門構えの家の玄関脇の客間で話を聞いた。
 賀洋子さんが、この松井家に嫁入りしたのは25歳の時だった。
「当時はクリスマスケーキとか言われましてね、私は結婚する気は一切無かったんやけど、実家からも結婚せぇ、結婚せぇ、言われて、お見合いをして結婚しました」
 その頃、このあたりは、神社の氏子間で、神祭りの当番を受け渡しする儀式も厳格に行われ、皆が羽織袴で臨むほどだった。
 家のすぐ前には田んぼがあった。嫁いだのは冬で、嫁ぎ先の母との会話の中で、その「田んぼ」が出てきた。それで、「田んぼなんてありません。どこの田んぼですか?」って質問してあきれられたのを覚えています。私にとって田んぼとは、水が張ってあり稲が実っているもので、冬の田んぼには馴染みがなかったんです。
 結婚したその年に子供が生まれた。
「実家では初孫ということで、父も母も待ってるんですけどね。よその家に世話掛けたらいかん、うちの子じゃなくなるって。ここは古い家で、実家にちょくちょく帰るもんではない と言われ、大っぴらに帰れるのは盆と正月でした」
 文章にしてしまうと今では深刻な内容ながら、明るく気さくで、漫談のような話しぶりの賀洋子さんだ。以来、子育てと家事、音楽教師の仕事に邁進してきた。夜6時半には必ず職場である学校を出て帰宅し、家事をこなした。
「夫も教師でしたが、家事はおろかゴミ出しもしない。うちは大日本帝国でしたから(笑)」
 皆が就寝した後、持ち帰った仕事に向かった。日付が変わる毎日だった。
 現在では、3人の男子を育て上げ、既に5人の孫がいる(その後6人に)。その間、実の母とは電話でゆっくり話をする時間もなかったし、母親も遠慮して電話がかかってくることはあまりなかった。
 ところが7年前に、事態が変わった。同居する義理の父親に介護が必要になり、賀洋子さんが世話することになった。義父が巨漢で義母だけでは無理だったからだ。おむつを替えるだけでさながら戦いだった。退職して、週に3日の非常勤講師になった。教師として好きな音楽だけは続けたかったからだ。
 義父は4年前の令和元年に95歳で亡くなったが、その7年前と期を同じくして実の母・史子さんに認知症の症状が出始めたのである。

●弟との結婚がまとまらず、材木商は男が多くて物騒だから……
 将広さんと陽子さんのきょうだい3人で連絡を取り合う日が始まった。史子さんを病院などに連れていく時には妹の陽子さんと賀洋子さんの二人で行くことが多い。そんな中での将広さんからの硫黄島渡島の誘いだった。
 なぜだかは分からないが、同時に服部家絡みの情報も集まってきた。音楽の仕事の関係で、偶然にも源一の姉の孫に出会った(系図3参照)。姉・郁子は源一の上官が死の真相を語った時、その母・栗惠と一緒に仏壇の前で聞いていた人物である(連載第18回参照)。
 その孫が言うことによれば、祖母・瑳巴子が戦後に実家に戻らされた理由とは以下だった。当初、瑳巴子は源一の弟・源二にめあわせられようとした。しかし、まとまらず、材木商のように男手が多いところは物騒だからということで、実家に帰らせたのだという。源一の姉である郁子は、そう語っていたのだ。
 今となっては、その真偽は分からない。だが、結果的に実家に帰らされたという事実は変わらない。違う点は、その理由が「弟との結婚がまとまらず」「材木商は男が多くて物騒」と「遺産相続で将来、揉めることを恐れて」いうことだ。だが、それらすべてが要因だとしたら話の辻褄が合わないことはない。
 その孫との出会いをきっかけとして、源一が姉・郁子に宛てた満州からの手紙ももたらされた。将広さんが硫黄島に持参したものだ(連載第22回参照)。
 また、その郁子と、もう一人の源一の姉で19歳で夭折した妙子の話も聞くことができた。郁子は、その孫の家(清水家)に嫁入りしてきた時に「女中さん」を2人連れ、オルガンを2台持ってきたと言っていた。そのことを思い出したその孫は、わざわざ蔵の中を探してみた。すると果たして、2台が見つかり、1台は音が出なかったが、もう1台は大丈夫だった。妙子に関しては、音楽のレッスンのために、月に1回、東京まで通っていたという。
 大正時代末から昭和初期の話である。服部家が営んでいた木屋源内の経済力が察せられる。郁子は、「おさんどん」つまり台所仕事や裁縫などはダメだったが、達筆で話は上手な才媛だったという。

●ある朝、目覚めると、枕元にはお菓子の山が
 一方、母親の史子からは、祖母である瑳巴子が河合家に戻る時と、吉川家に嫁いだ時の話を聞いた。
 祖母は、自らのものは一切処分して河合家に戻ったという。源一や服部家ゆかりのものを身近に置きたくはなかった。新しくやり直すためのふんぎりだったようだ。
 しかし、わが子を置いて吉川家に嫁ぐ時には、ふんぎりをつけにくかった。ある朝、史子が目覚めると、母・瑳巴子の姿はなく、枕元には山ほどのお菓子が置いてあったという。
「ばあちゃんはばあちゃんで心を残して行ったんでしょうね。昔の人は家の都合で動かされてね……。ばあちゃんを服部家から出した栗惠さんにしても、勉強したくて親の反対を押し切ってまで高等女学校の一期生となり、烈女と言われた人です。どういう気持ちだったのかは分かりません」
 自分の半生を省みても、キャリアや子育ての面では女性が圧倒的に不利な時代を生きてきた。結婚して姓が代わった時、自らの銀行口座の名字を「吉川」から「松井」に変更し、一つくらい「吉川」のままにしておきたいと銀行員に尋ねたら、「架空名義になる」と却下された。喪失感が募った。
 賀洋子さんは言う。「女性が苦労する時代は終わりにしたいですね」。
(続きは1月27日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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