
■連載[第32回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その17
●長男・将広が見た風景
史子さんが退室した後に、将広さんが言った。
「昔のことは、よう覚えてますね。でも、あと1時間もしたら、今、話していたことさえ忘れています。話の内容は、取り繕いといいますか、私はしっかりしてますよ、というアピールなんでしょう。認知症特有らしいですけどね」
史子さんにとって一番の苦労は、やはり父親違いの妹のことではないかと言う。将広さん自身も、大学生の時に、その叔母の態度を見かねて食って掛かったことがあるからだ。
将広さんは、大学卒業以来、鉄道系の不動産会社で働いている。1級建築士の資格をもっているため、休日は頼まれて専門学校で講師をすることも多い。住まいは、この吉川家から歩いて数分のマンションだ。3歳年下の妻と21歳になった娘(当時)と暮らしている。奥様は、結婚後は専業主婦で、娘の長女は、現在、クラシックバレエの講師をしている。硫黄島にも行った長男の智紀さんは、仕事のため家を離れて大阪で一人暮らしだ。
昭和42年(1967)に将広さんは生まれた。子供の頃は、「がさ」や「ちょか」などと言われた。「落ち着きのない」ことを指すという。小学4年生から中学2年生までは、姉妹と同様、山口県徳山市で暮らした。回天記念館のことも覚えている。しかし、その思い出は一風変わっている。
「魚雷って、真っ直ぐにしか進まないのでは、と思い、こんな島がいっぱいある瀬戸内海から外洋に出られるのか疑問に感じた」と、まさに男の子らしい感想だった。
奈良に戻って大阪の私立上宮(うえのみや)高校に進学した。母親いわく、山口の内申書の評価は厳しく、奈良の公立の進学校に進むのは難しいから、という理由からだった。中学・高校時代は硬派だった。山口で始めた「剣道一本」で、高校の剣道部は強く、小学校以来の坊主頭で過ごしたのだ。2段の腕前である。
大学も大阪の摂南大学工学部建築学科に推薦で進んだ。もともと理系志望で、電気や機械より面白そうというのが選択の理由だった。剣道は止めて髪を伸ばした。時代はバブル経済が始まった頃だった。高校の友達などとイベントサークルを作ってダンスパーティをやったり、皆でジェットスキーを所有したりして遊んだ。
●母親から来た手紙
就職は、業種は違うものの父親と同じ系列の会社に入った。東京支店を経て、本社へ戻り、上司と反りが合わずに大分(おおいた)で働き、35歳で再び本社へと戻った。設計を行い現場で働き、現在は主に営業である。結婚は27歳の時だ。東京支店から本社へ戻った時、1級建築士の資格を取得できたので、当初の予定通りお見合いをした。
「それなりに恋愛はしましたけど、恋愛と結婚は別やと母親からさんざん言われてきましたしね。絶対に東京の女と一緒になったらあかん、とも言ってました。この家の財産、この家の財産、とよう言い、吉川家を守っていかなあかんから、それなりの大和(やまと)の嫁をもらわんと、と言われ続けてきました」
東京で働いていた時には手紙さえ来た。そこには「変な女に手を出すな、この家の仏壇を守っていかんとあかんから」といったことが書かれていた。そして、奈良県の旧家の女性と結婚した。
「見合いで結婚したと言うと、周りはやっぱり驚きますね。私としてはきょうだい3人とも見合いですから、当然だと思っていました」
男子は将広さんしかいなかったせいか、母親は子供の頃からずっと厳しく、様々なことに干渉してきた。けっこう反発もし、奔放だった妹の陽子さんとは「家出しようか」などと話したこともあったという。
「女に気を付けろ、ダマされたらあかん」というのは「恵津子ばあさん」(祖母の瑳巴子のこと。連載第29回参照)も一緒だった。加えて「あやしいところに行ったらアカン」、さらには、いろんな人に挨拶していると「村でそんなにペコペコ頭下げんでええ」と言われた。
そういったことを母親も引き継いでいるのはないかと思うが、違うのは将広さんが「おばあちゃん子」だったことだ。なにしろ初めての男の孫である。ずいぶん可愛がられたという。一方、祖父の英太郎は違った。質屋の店もあり、社会的に様々な付き合いをしていたからか、近寄りがたかったのである。
「見門のおじいちゃん」(河合家)のところには、やはり子供の頃によく行った。正月や夏には、ほぼ行っていた。もう、腰は曲がっていたというが、夏には蚊帳(かや)の中に寝かせてもらったことを覚えている。なんと、敷地の中に川が流れており、家の窓から竿糸を垂らして魚釣りに興じていたという。
●父親と17代吉川家当主
一方、父親の英昭さんからは、特段、何も言われずに育ってきた。
「経理畑を生きてきた真面目なサラリーマンです。子会社の監査役までなりましたけど、時代状況もあって、大過なく過ごしてきたから上がっていけたんでしょう」
吉川家の近辺には大きい家が多い。先述したように、隣は「大庄屋」だった家である。吉川家も「庄屋」の家柄で、近辺は郡山城下の庄屋級の家が集まっていたと思われる。
「ばあさん(祖母)は、農地解放でいっぱい取られたと、よう言うてましたわ」
将広さんは、おそらくその17代目に当たる。おそらく、というのは、以前にそういうことを聞いたのだが、記憶が曖昧で、自分か息子が17代に当たるのだ。確かめたくても家系図がない。あると思うのだが、父親も認知症になってきて、それがどこにあるのか、現在のところ分からないのだ。「17代」といえば、それぞれの当主の時期が平均20年だとしても通算340年、つまり江戸時代前期から続く家ということになる。
「父親は、家でも現状維持のままよけいなことはしない、そういう主義でやってきたようです。植木一本切るのも嫌で、捨てた方がいいものも捨てない。だから物がたまっていく。じいさんの英太郎は新しもの好きで、当時、茅葺(かやぶき)の家だったのを、いち早く、鉄筋コンクリートのものに建て替えたそうです。私が子供の頃、お前のお父さんはなんにも新しいことをしないからな、とぼやいていたのが、最近、よく分かってきました」
父親とはあまり話さなかった。その関係性は、父親と母親の間にも言えるようで、両者があまりコミュニケーションをとってきたようには見えなかった。

●ここの家だけ江戸時代?
そんな将広さんが笑いながら言う。
「最近は、長男の智紀(ともき)に、お前、この家を継いでいかなあかんぞ、と言ってます。また、訳わからん女と結婚したらあかんぞ、とも言うてますわ」
智紀さんも大変である。
「智紀は、ここは江戸時代なん? 江戸時代の家に生まれたみたいやけど、と冗談めかして返してきますわ。だから、お前は見合いせなあかん、て言うてるんですけど、家内は、そんなんええやん、言うてます」
智紀さんには、当然、彼女もいるようで、その事実は母親(妻)には言うが、将広さんには言わないという。
そんな冗談めいた言葉と裏腹に、実際に家を継いでもらうため講じていることもある。吉川家は今も多くの田を所有している。そのため、長男の智紀さんを父親(智紀さんから見た祖父)と養子縁組させ、その相続人にしたのである。そうしないと家屋敷を含め相続が大変なことになるのだ。その地代や家賃の管理なども、認知症になる以前から、「なんにもしない」父親に代わって将広さんが担わざるを得なくなってきていた。
(続きは3月3日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠