
■連載[第36回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち 最終回
●源一の墓と生家
翌日は、源太良さんの母親・和子の命日だった。源二の妻である。お墓は桜井にあり、奥様の久子さんとお参りに行かれるというので、筆者は同行をお願いした。
久子さんは優しく落ち着いた感じの女性だった。久子さんは墓参りの準備のため、先に車を降り、筆者は源太良さんに木屋源内の跡地と服部家の墓を案内してもらった。
墓は桜井駅の南側の来迎寺(らいごうじ)にあった。このあたりは細かい路地が入り組み住宅も密集していて歴史の古さを物語っている。すぐ南には国道165号線が走っている。国道といってもなだらかなカーブが続く片側1車線の道で、古代の官道「横大路」だった通りである。信号には「磐余(いわれ)橋北詰」との表示がある。ここから南の「磐余」と呼ばれる地域は、5、6世紀頃の大和王権の要地だった。山田寺跡や安倍寺跡など歴史的な名勝地も多い。
来迎寺は黒瓦が重々しい立派なたたずまいの寺だった。その墓地を入ってすぐのところに掃除の行き届いた服部家の墓があった。先祖代々の名前が書かれた石碑があり、源一の名は、源内の隣に刻まれ、そこには硫黄島の摺鉢山の戦いにおいて亡くなった旨が彫られていた。源二以下の墓は、手狭になったため近くの他所に設けられているという。土塀に囲まれた寺の中は音もない。静かに手を合わせて黙祷した。御礼を言い、源太良さんとはここで別れた。
ここから、今度は一人で、服部家の旧地を源太良さんに案内してもらった逆のルートで歩いて辿った。
6月の奈良盆地は蒸し暑く、空は雲に覆われている。北へ10分も歩かないうちに、桜井駅の南口のロータリーに出た。そこに、未だに「インテリア木源」との看板が出ている鉄筋3階建ての間口の広いビルがある。ここは、源太良さんの妹が5年ほど前まで営んでいた店だ。今では売却されて古びたままになっている。
もともとは、美術などが好きだった源二の妻・和子が始めたものという。往時は北海道などにも支店があり、手広く展開していたが、先細りとなって源太良さんが事業を縮小した。さらに、それ以前にビルになる前は、源一が暮らした生家がここにあったのだ。
そこから、東へ少し行き線路を渡って北へ行くと、所有権が史子さんに渡された貸家がある。数軒が連なる長屋だった。ここから数軒を挟み、北へ連なる形で服部家の家屋敷と木源の製材所や店舗があった。
●身捨つるほどの祖国はありや
隣接していた田も含めて約1000坪だったという家屋敷だ。今では小分けにされ、いくつかの通路を挟んで20軒ほどの立派な家々が立ち並んでいる。ここは、源太良さんが高校生の時に家を建てたところという。
その北に位置する場所こそ木源こと木屋源内の跡地である。今では葬儀場などが建っているが、そこには鉄道の引き込み線があったというように現在の桜井線(万葉まほろば線)のすぐ脇だ。桜井駅北口からの位置関係でいえば、北東方向に徒歩10分ほどのところである。ここも1000坪の敷地があり、さらにここから数分のところには別工場も保有していた。
現在では、その隣に巨大なショッピングセンターがある。ここは以前、木材市場だったところという。木源は敷地に引き込んだ鉄道で木材を運び、加工して、すぐ隣の市場で売買していたのである。この立地から考えても、この辺りでの木源の位置づけが分かるというものだろう。
その市場や工場だった跡地の規模に圧倒される思いがする。今ではその面影はないが、おそらくここは働く人々の活気に溢れていた。桜井駅近辺は商店街として賑わっていただろう。そして、その中に、誰もが眩しいと感じていた源一の笑顔もあったはずだ。
「身捨つるほどの祖国はありや」というフレーズが脳裏に浮かんだ。父親を戦争で亡くした詩人が短歌に詠んだ一節である。源一の胸中は分からない。しかし、硫黄島からの手紙には、身もだえするほどあくがれていた故郷が書かれていた。瑳巴子や史子さんがいるところがひたすらに綴られていたのだ。
風が吹いてきた。どこかで雨が降ったのだろう。なだらかな山に囲まれ、高い建物のない奈良盆地の空は広い。ふと振り返ると、そこに、「おーい」と駅員を呼ぶマント姿の源一が立っている気がした。(了)
(次回は3月31日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠
