
■連載[第35回]
「一人娘」をめぐって。奈良の旧家の末裔たち その20
●服部家のタブー
源太良さんと史子さんはいとこ同士にあたる。しかし、初めて会ったのは源一の五十回忌が行われた平成6年(1994)のことだった。そこに史子さんが呼ばれて来たのである。源太良さんが44歳、史子さんが51歳の時だ。伯母の瑳巴子には会ったことがない。源太良さんは言う。
「家の中で、伯父さんの奥さん(瑳巴子)と、史子さんのことについて話題にのぼることは、一切、ありませんでした。木屋源内を守るため、国を守るために、伯父さんは戦って亡くなりました。それなのに、長男のお嫁さんには家を出てもらって、次男の源二に家を継がせ、服部家の子孫を残そうとしたわけでしょう。申し訳ないことをしたという気持ちは皆にずっとあったと思います。
そういったことは、後で分かりました。おばあちゃん(栗惠)が、繰り言をボソボソ言っているのを聞いたからです。話しにくかったのだろうし、一方で孫には会いたかったんだと思います。おじいちゃん(源内)は、いつも史子さんがいる実家の見門の方を見ては、どうしているんやろうな、と言っていたそうです。
父親は父親で、その話をすると、自分やおばあちゃんを責めることになってしまう。だから言えなかったんです。
憶測ですけど、史子さんも違う家で肩身の狭い思いをしたのではないかと思います。みんなそう思っていたから、一切、話には出ませんでした。うちのことを恨んだと思いますが、戦争であんなことになったし頑張ってもらうしかないとも思っていました」
源太良さんにとっても、五十回忌の時に配られた『追悼録』を読んで、初めて知りえたことがほとんどだったのだ。それは伯父の源一のことも含めてである。
「いい人生を送って欲しい、とは思っていても、なかなか気安く声をかけることはできませんでした。吉川家に入ってからは、こちらは関係ありませんし、もうそこに入ってはいけない、と思っていますから。親父がずっと気にしていたことも分かっていました」
陽子さんが話していたように、史子さんには財産分けとして服部家の貸家(長屋)の一角が与えられた。しかし、その一角の境界は明確には決まっていなかった。木源が倒産した時、その境界をはっきりすべく、源太良さんは、史子さんの夫である吉川英昭さんに来てもらい、できるだけ吉川家に有利になるべく決定したという。

●護国神社
史子さんを護国神社への参拝に誘ったのはやはり源太良さんだった。
源太良さんが奈良県の護国神社に参拝に行くようになったのは、父親が亡くなった翌年からである。神社からの案内が源二に代わって源太良さんに来るようになったからだ。
源太良さんは、6年前に膀胱や肝臓など3か所の癌の手術を受けた。「奇跡的に成功」し、退院して再び、護国神社にお参りに行った。その時に思った。源一さんがお祀りされているのに、その娘さんをお誘いしないのはいけないのではないか、と。
源太良さんは、倒産後の仕事の関係で、史子さんに少し世話になったことがあった。
「ただ、史子さんは私と会うことに、どこか気兼ねがあるような感じがしていたんです。吉川家でのご自分の立場というものがあったんでしょうかね。私としても、元気にしてらっしゃるということが分かって安心できただけで良かったですし、服部家とは関係ないのですから、こちらから無遠慮に連絡するわけにもいきませんしね」
それでも電話をかけ、参拝に誘った。すると、史子さんは来たのである。
そんな中、一度、奈良駅まで史子さんを見送りに来ていたのが将広さんだった。しかし、その後、4年目くらいから史子さんは連絡しても来なくなった。同時に年賀状のやり取りも始めたが、それも届かなくなった。すると、吉川家から「認知症の症状が出始めて」との連絡をもらい、心配だけど、お元気ということだったので、少しは安心していたのだという。
3~4年前には、源一や源二の姉・郁子の子に、史子さんと源太良さんの3人で会った。その人は、史子さんにとっても源太良さんにとってもいとこにあたるのだ。既に亡くなってしまったが、澄(とおる)さんと言い、郁子と清水宣正の子で九品寺の住職だった(系図4参照)。澄さんと源太良さんは親しくて、二人とも会いたいというのでセッティングした。寺で会ったが、その時、史子さんは澄さんの姉の一人とよく遊んだ、と言っていた。澄には4人の姉がいたのだ。ちなみに、連載第27回で賀洋子さんが源一の姉の孫に会った話が出てきたが、澄はその父親にあたる。
また、史子さんが硫黄島に行ったのは、やはり源二の斡旋によっていた。枠が一人空いたので、勧めたと聞いたことがあるという。

●解かれた封印と満たされる空洞
こうして話を聞いていくと、源二と史子、郁子と史子には多少なりとも交際があったことが分かる。叔父と姪、伯母と姪の関係だ。
しかし、服部家の中では、瑳巴子と史子のことはタブーとなっていた。服部家において、瑳巴子と史子をめぐる事実は封印されてしまったのだ。むしろ、各々が、各々を思いやって封印した。こうすれば良かった、でも仕方がなかったと、堂々巡りに考えてしまう。しかし、その思いさえ話せない。誰かを傷つけてしまうからだ。その思いやりが一層の罪悪感を生み、いつまでも感情は交わることがない。
ここでは事実は欠落し、永遠の空洞になったかのようだった。空洞だけに、そこには思いを象徴する座敷童は登場できない。源一が硫黄島で写真に頬ずりしながら書いた「史子は元気でいるだろうか」は宙を彷徨うままだったのだ。
先にも触れたように、『追悼録』には、硫黄島からの手紙の文面を除いて、史子についての記述は少しはあるが、瑳巴子については皆無に等しかった。編集した源二にとっても瑳巴子は兄嫁ではあるものの、いとこにあたる。書きたくても書けなかったのだろう。
それでも、その封印された事実を開いたのは、『追悼録』だった。源太良さんは、それを読んで事実を確信した。「七代目」から「八代目」へ、親父の思いは息子に受け継がれたのだ。そして、永遠かのように見えた空洞は、様々な思いによって満たされていった。
吉川家の人々で、源二のことについて悪く言う人はいなかった。『追悼録』を書いた「本の人」という呼び方に加え「源二さんはいい人」と誰もが言う。おそらく母親から聞いていたことが、そのままの印象になっていったのだろう。
先に、源一の母親・栗惠が硫黄島に出した手紙が、アメリカから源太良さんのところにもたらされたことを書いた。平成24年(2012)の朝日新聞奈良版に掲載された記事のことだ(連載第22回参照)。その手紙は後に、源太良さんによって史子さんに渡されたという。
また、源一の墓に吉川家の誰かが今も墓参りに来ていることを、源太良さんは気付いていた。きれいに清掃され花が手向けられているのを常に目にし、住職に理由を聞いて見当をつけていたのだ。筆者が確認すると、それは、将広さん夫妻だった。2カ月に一度、出かけていて、賀洋子さんと陽子さんも機会があればお参りしていた。その気持ちが分かっていたからこそ、今回、将広さんたちの硫黄島への渡島の事実を聞いてあんなにも喜んだのである。ましてや、自身は硫黄島に行く余裕もなかったし、今では体力がおぼつかない。
「親父の思いが少しでも伝わっていればありがたいです」と、源太良さんは言う。
「うちの家族も含め、いつか皆で会いたいと思います。そういう場を持ちたいんですけどね。今はみんな元気でいてくれたらそれだけで嬉しいです。史子さんが元気な時にもっと会えていたら嬉しかった。いろいろお世話になったし、そう伝えてもらえれば嬉しいです」
そう言い終え、「これもらってもいいですか」と筆者が取材のために作成した服部家と吉川家の相関図を大事そうにかばんに入れる源太良さんだった。
(続きは3月24日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠