連載[第44回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第44回
令和8年5月19日

■連載[第44回]
新しい「今」を生きるために その5

●岳父と特攻
 就職してからの佐藤さんは、実家の西川町から通ったり、勤務先近くの独身寮にいたりした。佐藤さんが結婚したのは昭和52年(1977)、27歳の時である。相手は、当時の女性らしく、短大で家政学を学んだ24歳だった。佐藤さんと3歳違いだった。
 山形市出身で「田舎の西川町に嫁いできてくれる人は、その頃でもなかなかいなかった」という中での結婚だった。母親・みのりと同居したが、その関係がこじれた。
 当時の状況に加え、佐藤家を支えてきたという自負も相まって「嫁は姑に従うものだ」という意識がみのりには強すぎた。間に入った佐藤さんも苦労し、1年が過ぎた頃、西川町を離れ、山形市で別居することになった。それでも、母がいる西川町へは週に1度ほど通った。そして、結婚2年後には長女を、さらに2年後には次女を授かった。
 一方、結婚に際して驚いたのは、義理の父が特攻隊の生き残りだった、ということである。さらには、その岳父の終戦時の行動が、城山三郎の短編『雲からの生還』に書かれていたのだ。以下は、そのあらすじである。
 学徒として海軍に入った主人公(義理の父)は航空隊に所属し、沖縄戦にも出撃した。特攻隊として朝から出撃を待っていたその日が、まさに終戦の日で、間一髪、取り止めとなった。そして、京都府の京丹後市にあった飛行場から山形へと特攻機で帰還した。それは、敗戦の日から10日間のみ許された飛行だった。それ以降は、敵対行為としてアメリカ軍によって撃墜されるという条件下のものだったのだ。軍の指揮系統も管制も無くなった混乱のただ中に、静岡、茨城の飛行場を経由して帰還するのは、決死の覚悟を要するもので、しかも山形の飛行場に帰還したのは、8月25日の飛行禁止時刻まであと1時間という時だったのだ。
 上記の『雲からの生還』は、短編集『忘れ得ぬ翼』(角川文庫他)に収載されている。同書では、陸海軍の多くの戦闘機を題材とし、その搭乗員たちの戦中・戦後が8編に紡がれている。戦後24年目の昭和44年(1969)に発表されたそれらの短編は、作者の丹念な取材によるものといい、実際、岳父のところにも城山三郎が訪れたのだという。
 家は、市内の中心部に在る。(中略)高度を百メートルにまで下げる。
 家が見える。出たときのままのたたずまいである。不覚にも懐かしさがこみ上げる。下士官たちだけでなく、おれにも帰るべきところがあったのか、という思いである。生きて再び見ることはないと思っていた家、その家がまぎれもなくすぐ眼下に。

 亡くなった多くの戦友のことを思い死の誘惑にかられながらも、山形市上空まで辿り着いた時の、主人公の述懐である。次々と死んでいった仲間たちのことを思い、「それに比べて、見るべきでない家をおれはいま見ている、と思った」と書かれている。それは、実際の経験がなければ表現できない感情で、まさに作者が岳父に取材して出てきた言葉と推測される。
 佐藤さんは言う。
「実の父には、父親としての教えをあまり受けたことがありません。だから、いろいろ教えてもらい、気にかけてもらったことは嬉しいことでした」
 それは、もう一つの「父という存在」との出会いだったのだ。
 岳父は小説にも書かれているように農協関係の仕事に就き、労働組合のリーダーとして選挙などにも携わり、最終的に県信用農業協同組合連合会の専務理事を務めた。

●東日本大震災とマーシャル諸島
 大学で化学を専攻した佐藤さんは、技術職として県庁に入った。以来、公害担当を皮切りに広く環境問題に関わり、最後は「環境科学研究センター」の所長として、60歳の定年退職を迎えた。
「技術職だから環境の仕事一本でこられたんです」と佐藤さんは言う。
山形県のホームページを見ると、同センターは「環境企画部」「大気環境部」「水環境部」「環境化学部」で組織されている。
「私が子供の頃は、便所の汲み取りのためにバキュームカーが各家庭を回りだした頃で、その前は、肥(こえ)として畑に運ばされた時代でした。普段に実際の土作りを経験した世代です。それが、ひいてはグローバルな地球環境の問題にまで関わるようになりました」
 佐藤さんは、一地方の〝大家族”で生を受け、戦争の影を感じながら成長した。
「そういう関係や環境を背負いつつ、戦後の高度成長期の日本が抱えてきた問題に携わりながら生きて来たのだと思います」
 退職する日の20日前には東日本大震災が発生した。そして、佐藤さんは「海外協力隊」に参加することを決意する。
「山形では自分なりに一所懸命やってきました。地域の開発から環境汚染の未然防止まで、法律や条例作りに渡って手掛け、そのことに対する自負もありました。実の父も、北海道から満州に渡っていますからね、そういうDNAが私の中にあったのかもしれません」
 海外協力隊とは、JICA(独立行政法人国際協力機構)が日本政府のODA(政府開発援助)を使用し、開発途上国へボランティアを派遣するものである。任期は2年で、途上国からのニーズに基づき募集、選考、訓練が行われ、実施される。
 佐藤さんは気候変動などの分野で募集があったマーシャル諸島共和国とドミニカ共和国を候補とし、最終的に英語が使える前者に応募した。平均標高2メートルのサンゴ礁の国にとって地球温暖化による海面上昇は目前の脅威で人口流出も問題になっているのだ。
 マーシャル諸島において、環境行政という分野での日本の協力隊は佐藤さんが初めてだった。先方としても新鮮で、大統領府管轄の「環境調整局」での仕事ということもあり、技術指導や企画、運営、他国との折衝などさまざまな取り組みを行うことができた。海外から来ているボランティアの人とも広く交流した。一方、ここでも、戦争の爪痕と、今も続く恐怖を深く感じることになった。
 マーシャル諸島は29の環礁と5つの島で構成される。そのビキニ環礁とエニウェトク環礁で、1946~58年(昭和21~33)にかけてアメリカは計67回の核実験を行った。54年3月に行われた世界初めての水爆実験では日本のマグロ漁船「第五福竜丸」と1000隻以上の漁船が被爆した。その放射能の影響でビキニ環礁には今も誰も住めず、エニウェトク環礁も南半分でしか生活ができない。また、アメリカの基地には立ち入りが許されていない。アメリカから財政支援を受ける一方、国防と安全保障の権限を委ねているのだ。
 滞在中、佐藤さんの脳裏から、東日本大震災の津波による福島第一原子力発電所事故のことが離れることはなかった。
(続きは5月26掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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