連載[第46回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第46回
令和8年6月2日

■連載[第46回]
新しい「今」を生きるために 最終回

●西川町の風景
 筆者は佐藤さんが育った場所である西川町を見たくなった。不躾ながらも案内を乞うと、快く承諾いただいた。話を聞いた山形駅に隣接するこのホテルから、クルマで50分ほどという。
 驚いたことに佐藤さんの車は、マニュアル車だった。歳をとると運転が大変だと思うが「妻がマニュアルでないとクルマじゃない、と言うもので」と笑う。112号線で北西に寒河江を抜け、月山方向へと西に向かった。
 その名のごとくなだらなか稜線が美しい月山は、標高1984メートルの山形を象徴する山の一つだ。先述のようにその麓の町が西川町である。昭和49年(1974)までは、寒河江の羽前高松駅から西川町の間沢(まざわ)駅までを三山(さんざん)電車(山形交通三山線)が道路を並行する形で走っていた。佐藤さんが、左沢線(あてらざわせん/現JR東日本)に乗り継いで、一時は高校までを通学していた道のりだ。名産のさくらんぼ農園などを通り過ぎ、徐々にあたりは緑が濃くなってきた。
 西川町役場などがある町の中心部近くに到着した。生徒の送迎を行うスクールバスが走っている。過疎化のため学校の数が少なくなっているのだ。そのあたりから旧道へと入った。 今も道沿いには民家が並ぶが、ところどころに空き地が覗いている。佐藤家の家屋と店舗があったところも旧道をはさんで二つの更地となったままになっていた。
 農道を行くと、集合墓地があった。この一角に佐藤家の墓があったのだ。墓地の目の前には以前、川があったが、佐藤家の祖先である政右衛門の普請により流れを迂回させたのだという。「熊出没注意」ののぼりが立てられていて、私たちは長居せずにクルマに戻った。
 ここから先に、海側の庄内地方へと続く「六十里越(ろくじゅうりごえ)街道」がある。出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)への信仰の道といわれ、庄内藩主の江戸への参勤交代路としても利用されていた古道だ。周辺の宿場町には茅葺き屋根の民家が今も往時の姿をとどめている。県庁職員時代には、その古道復元・整備事業などにも関わったという。
 帰り道、西川町「道の駅」に寄った。ここには、地ビールと自然水の工場もあり、佐藤さんが硫黄島の慰霊碑で水を献じた「月山の天然水」が、そこでボトルに詰められている。佐藤さんがニコニコと、長さ50センチ、直径15センチほどもある巨大な瓜を買っていた。夏になるとこの産地の名物を食べたくなるという。
 今度は山形市へ向けて蔵王連峰を眺めながらの帰途となった。山の緑が深い。佐藤さんは、季節によって色彩が刻々と変化する山形市を囲む山々が大好きという。また、それらの山々がないと方向感覚がなくなってしまう。
 だからこそ、大学生の時、アルバイトのために行った北海道の牧場で、限りなく広がる地平線というものを初めて見て驚いた。マーシャル諸島に行った時は、太平洋のど真ん中を、2日間、航海して、水平線の果てしなさに驚嘆した。
 地球環境は広大で、その様相も様々だ。この地球上の素晴らしい恵みが、いつまでも享受できるものであって欲しい、と佐藤さんはしみじみと言う。
 クルマの中では、インタビューの内容の延長の話題で話がはずんだ。それは、本来、科学の領域である原子力の安全利用が、政治や経営の問題と混同して語られ、引いては、単純な賛成派・反対派のレッテル貼りとなり、科学者たちの多様な議論を知ることができないという現状だった。あるいは、なぜ、人類は科学の知見や歴史の教訓に学べず、経済対立や戦争までが日常的に起きてしまうのか、ということだった。
 あっという間に、千歳山(ちとせやま)が見えてきた。山形市内のどこからでも見える、小ぶりでかわいらしい整った三角形の山だ。山形民謡「紅花(べにばな)摘み歌」でも、のっけに歌われている。

●妻の死と
 佐藤さんは、7年前(平成30年/2018)に、妻・美知子さんをすい臓癌で亡くした。65歳という若さだった。以来、一人暮らしという。
 それまで佐藤さんは、財布の管理に至るまで家庭のことは何もせずにやってきた。それが当たり前だと思ってきた。しかし、心構えを変えた。掃除もするし自炊もする。そのためにレシピ集もメモした。何より、生活が荒れないよう日課にしたことがある。それは、晩ご飯を、毎日、作って、妻の霊前に供えることだった。もう一つは、花を絶やさないことである。冬など生花が少ない時は、鉢植えを飾った。運動のためにと、近所のスーパーで週2回、2時間だけ、商品陳列のアルバイトもしている。
 佐藤家は佐藤さんの代で終わりになるだろう。それは姉や親戚たちに「3代目は家を潰すからなー」と冗談交じりに言われた通りになった。佐藤さんの人生をうかがっていると、とても3代目とは思えないほど、多くの人たちが錯綜するが、代からすると政右衛門を筆頭に、次の世代が政助や千春、みのりの世代で、その次が、硫黄島で亡くなった正を筆頭にした佐藤さんのきょうだいの世代なのである(系図3参照)。

 若い頃は、「跡取りの男の子ができない」などの陰口も聞こえてきた。しかし、他家に嫁いだ2人の娘も、今の時代は気軽に実家の佐藤さんの様子を見に来てくれる。孫もできた。娘たちには、佐藤家のことは詳しくは伝えてはいないが、硫黄島のことについては話をした。
 帰りに、軍服姿の正さんの写真を撮影させてもらうため、自宅に寄らせていただいた。線香をあげさせていただくと、そこには、手作りの料理が供えられている。仏壇の周囲には、やはり奥様の写真と共に生花が飾られていた。テーブルの上には、当時、話題になっていた読みかけのノンフィクションの単行本が置かれている。突然の訪問にも関わらず、部屋は整えられていた。
 いつしか亡くなった友も多くなった。佐藤さんにとって「死」は、今では、隣の部屋に行くような感覚になったという。それでも、佐藤さんは現在も確実に変わり続けていた。「昭和という時代の区切り」をつけ、「背負ってきた多くの環境や関係性」を降ろした佐藤さんの、新たな「今」がそこにあった。(了)
(次回は6月23日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

硫黄島記事一覧

ページ上部へ移動