連載[第38回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第38回
令和8年4月7日

■連載[第38回]
「忘れてしまったら、存在さえ無くなってしまう」 その2

●父は捨て子だった?
 大渕さんは渡島前に遺骨のDNA鑑定の申し込みをしていたが、その際、DNAのサンプルとして提出したのは母親の早苗さんのものだった。母親が北川家の遠い親戚にあたるからだ。父親が既に他界していたということもあったが、そこには、ある事情があった。
 そのことに関して、母に詳しい話を聞いたのは、父親の清美が心不全で平成19年(2007)に66歳で亡くなった後だった。大渕さんが40歳の時である。
「系図上、両親は、はとこの関係になります。父と母の祖母同士が姉妹なんです」
 父親にとっての母方の祖母(大渕さんにとっての曾祖母)とは、きよや北川萬介の母親にあたる北川みつだ。北川みつは、きよが子供の時に亡くなったが、その北川みつには、間に何人かのきょうだいをはさんで妹・まさがいた。そのまさの孫が大渕さんの母・早苗さん(83歳)なのである(系図2参照)。

 先述したように大渕さんは埼玉県の川口市で育った。だが、2歳までは、東京の上板橋に住んでいた。その上板橋の家では、きよのきょうだいや北川家の末裔などが入れ替わりで祖父と祖母を頼り、世話になっていたという。大渕家は板金業がうまく運んでいた。後に父親は、農業学校を卒業して食品メーカーに勤めたが、板金の技術を祖父(父)に学んで家業を継いだ。
 祖父・亥三郎と祖母・きよ、父・清美。まだ3人家族だった頃には、戦地から戻って来た縁者などがここを足掛かりとして職を求め、下宿していたのだ。決して広い家ではなかった。上がり框(かまち)を挟んで作業場と台所の土間があり、3畳と4畳半、6畳の3間があった。水道は通っておらず井戸に手押しポンプの水汲みがあったという。
 そんな状況の中、持ちあがったのが父親と母親の縁談だった。父親は昭和16年(1941)生まれで、母親は1歳違いの昭和17年生まれだった。頃合いの二人だったのだ。だが、母の早苗さんは、血縁が近いことが気がかりだった。一方で、清美に関する、ある噂も子供の頃に耳にしたことがあった。それは、清美が捨て子だったというものだった。寺に捨てられていた赤子が貰われてきたのだという。
 真偽を確かめたくて早苗さんは親戚に相談した。その親戚とは、大渕家に下宿したこともある叔父で、その叔父はきよに改めて確認した。そして、その叔父の仲人のもと、結婚に至ったのだ。親戚たちの多くは、概ねそのことを知っていたが、戸籍上も「実子」である父親は、知らないまま亡くなったようだ。
「母親が、特に改まって私に伝えておこうとしたことではありませんでした。会話の流れの中で、占いの話となり、出てきた話だったと記憶しています。両親が、親戚たちと出かけた旅行先でのことでした。昔は、親戚たちとの付き合いも密でしたから。通りを歩いていると、道端の出店(でみせ)にいた占い師に『あなたを産んだ母親があなたのことを心配しているよ』と言われたそうです。父は、きよとは同居しているし、何も思わなかったようですが、母は捨て子のことを聞いていたのでピンときたそうです」
 祖父の血液型は分からない。その亥三郎やきよの、縁談を進めるための方便だったのかもしれないし、真実は分からない。だが、父親は一人っ子だった。また、実家には父親の幼少の頃の写真がやたらに多くあった。亥三郎ときよの、子に対する思いとも、その子が本当の子であることを疑わないようにしたとも思えるほどの量だった。
 さらには、きよは極度に用心深い人だった。知らない者が電話をかけてきたり、尋ねてくると、異常に疑う態度をとった。本当の親が訪ねてくることを恐れるがための行動だったとも考えられるのだ。
 このような経緯があったため、大渕さんは、自分のものではなく母親のものをDNAのサンプルとして提出した。捨て子説が本当であれば、母親のものの方が「北川萬介」のDNAに対して、より確度が高くなると推測されたからだ。しかし、鑑定の結果は、現在のところ該当なし、というものだった。

●北川萬介の墓じまい
 大渕さんは、小中高と川口の公立の学校に通った。子供の頃は活発で仮面ライダーごっこなどに興じていた。小中学校の時は、子供会の会長をやらせられたり、自ら学級リーダーをやったこともあるが、あくまで「普通のコ」だった。中学時代はバスケットボール部に入り、強くはなかったが、毎日、練習に励んだ。
 小中高に通っていた時期は昭和50年(1970)代で、東京近郊の川口だけに、環境の変化はすさまじかった。大渕さんは、自宅の作業場で仕事をする父親の姿をずっと見てきた。母親はそれを支え、祖父・祖母の世話もし、パートなどにも出ていた。貧乏ではなかったが、決して裕福ではなかった。
 高校に行けなかった母親は、大渕さんを短大に行かせたかった。しかし、大渕さんは、弟2人の今後のことなどを考え、高校を卒業すると就職した。プリント基板などを作る製造業の会社で主に事務をこなしたが、その会社が買収され退職。その後は、プログラミングなども勉強し、転職や派遣で数社を経験した。今の会社もM&Aに直面していて、今後、どうなるか分からない。
 子供の頃から書道をやっており、既に雅号(がごう)を名乗れるまでにはなっていて、いつか書道教室を開きたいと思っている。結婚はしておらず、子供はいない。
 生前、父親とは飲みに行くこともあった。父親が亡くなってからは、母親とは電話で良く話をしている。その会話によって母親が重ねてきた日常の苦労も改めて理解した。祖母の介護を終えた今は、母親自身の体のことが心配だ。
 祖母・きよが亡くなったのは、父親が逝った3年後の平成22年(2010)で、大渕さんが43歳の時だった。それまで、都内にあった北川家の墓は、きよが守ってきていた。先述のように、北川家の人々は、呉服商が潰れた後にそれぞれ進路を探し、行方は分からなくなっていた。一族の中で、きよ一人が守ってきていたのだ。
 北川家の墓地には、墓が3基並んでいた。北川家の祖先は愛媛県から上京してきたという。1基は、その上京してきたご先祖夫婦らしき名前が彫られているものだ。そして、もう1基が、北川萬介なども入っている直系の墓で、きよが守ってきたものだ。きよから何代か前以降が祀られている。
 さらにもう1基は、「木場の北川」と呼ばれる家のものだ。「木場」とは江東区に位置し、木場という地名の通り、木材市場や貯木場があったところだ。きよのいずれかの兄の家のようだが、この「木場の北川」との付き合いはなかった。
 ある時、墓地がある寺から聞いたのだろうか、木場の北川から電話がかかってきた。墓がいっぱいになったので、きよが守っている方の墓にお骨を入れさせて欲しいというものだった。しかし、きよは、ものすごい剣幕で断り、電話を切った。なぜ、そんなにも感情を露わにしたのかは分からない。祖父の亥三郎は既に他界していた。大渕さんが中学生の時で、その場に居合わせたのでよく覚えているという。ちなみに、それらのお骨は、北川家の3基の墓のうち、上京してきたご先祖のものと思われる墓に合祀されたようだ。
 生前、きよは、大渕さんに「北川の墓を見てね」と言っていた。しかし、きよが亡くなって3年後に、母親と話をして墓じまいをした。母親からすれば、自分は高齢になっていくし、負担を考え、娘である大渕さんに託したくはなかったのだ。
 お骨自体は寺に預かってもらいお参りは続けている。墓じまいの時に、ご先祖の誰がこの墓に入っていたのか、連なっている系譜を知りたいと思い、寺にある過去帳を出して欲しいとお願いしたが、なぜかそれはいまだに出てきていない。催促しようと思いながら、かつて墓石があったところには、一本の木が育ってきている。
(続きは4月14日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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