連載[第53回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第53回
令和8年7月28日

■連載[第53回]
風の音 その2

●死の瞬間
 その渡島から1年半が過ぎた頃、植木さんにお会いした。大手監査法人にお勤めで、休日に、ご自宅近くの貸会議室で会うことになった。
「硫黄島に降りた時、本当に感動していました。およそ20年越しの思いでしたし、まさか行けると思ってませんでしたので。一方で、それまでに写真や映像もけっこう見てたので、逆に実感がわかなくて。数時間しかいられませんでしたし、行けるところも限られてはいましたけど」
 いまだにその興奮が続いているかのように植木さんは話す。
 渡島時に厚労省に申請し、その後に送られてきた書類の写しも大量に持参してもらった。それによると、やはり曾祖父は海軍工員で、その履歴は以下となっていた。

・昭和18年12月20日 国民徴用令により徴用
        同日 横須賀海軍施設部普通工員に採用
・昭和19年7月21日 第204設営隊に派遣
・昭和20年3月17日 戦死

 1行目に「国民徴用令」とあるのは、徴兵が「大日本帝国憲法」に基づき、「兵役法」などによって規定されていたのに対し、徴用工員は「国家総動員法」に基づく「国民徴用令」によって行われていたからである。
 昭和19年7月21日に第204設営隊に派遣とあるが、その2か月前の5月21日に「第一日之出丸」によって出航したことが「乗船名簿」に記載されていた。小笠原諸島の母島に駐留した後に、硫黄島へ移動したと推測される。
 昭和20年3月17日に戦死とされているのは、この日が硫黄島が陥落し日本軍が玉砕したとされているからだ。要するにいつ亡くなったかは不明なのである。
 しかし、植木さんが聞いた話の中には以下のようなものもあった。
 曾祖父は、米軍の硫黄島上陸前の激しい艦砲射撃により亡くなっていたというのだ。その時も、爆撃を受けた滑走路の修復や地下壕を掘る作業は行われており、地下での作業のあまりの暑さに、少し涼もうと外に出た時、飛んできた大砲により亡くなった。それは同郷の生還者に聞いた話で、当時はどこで亡くなったかも分かっていたらしい。
「その話は子供の時にも聞いていて、当時は、言葉は適当ではないのですが、なんて間抜けなんだろうと、思ったんです。それは地下壕は暑いだろうし、映画などを見てもそうだろうとは思っていました。でも、艦砲射撃の最中に外に出るか?と思ったんです。しかし、実際に行ってみると違いました。あれは“暑い”ではなく“熱い”です。さらには、しゃがんだ時と、立った時でも感じる暑さは違います。地下に行けば行くほど熱くなりますよね。これは出るよな、と思いました」

●島とうがらし
 渡島の感想は続いた。
「まっ平(たいら)な小さい島でした。そう言ってはいけないのかもしれませんが、奇麗だな、と思いました。一般人が行けない島で、行けないがゆえに逆にシンボル化されているようにも思います。やはり弾痕とかも残っていました。あれを見るだけで違うと思いました。
 緑がジャングルのように生い茂っていますし、祖父にも写真を見せましたが、今はこんなになっているんだって、驚いていました。
 以前は祖父も行こうとしていたのですが、祖父の長兄が遺骨収集に行っていて、親族が一度、渡島したら、その他は後回しになると、思っていたらしいんですね」
 植木さんは、祖父が大事に所持している硫黄島の絵ハガキも持参されていた。それは昭和の終わりの頃に撮影されたもので、そこには今とはまた違う硫黄島の姿が写しだされていた。同じようなものを買ってきて欲しい、と祖父に頼まれていたがその類のものはなかった。
 その絵ハガキは、祖父の長兄が遺骨収集に行った数年後、同郷のご遺族が慰霊のために渡島した際に、お土産として貰ったものという。その時は、祖父も渡島を役場に申し込んだが、応募が多かったせいか抽選で、その選から外れてしまっていたのだ。しかも、募集のことをそのご遺族に知らせたのは祖父だったのである。
 また、お盆になると今も仏壇に飾られる2本の古びた小瓶も祖父母の家から持参いただいた。一つは「Eisai」(エーザイ)、もう一つは大正製薬の「サモン」の文字がラベルに印刷された小瓶だ。植木さんにとって硫黄島に関しての原点となったものである。
「サモン」のものには島とうがらしが、「Eisai」のものには硫黄島で採られた海水が入れられているという。「サモン」の瓶は、当初、封筒に入れられていた島とうがらしを入れ替えたものだ。
 これは、祖父の母方の従妹(いとこ)が届けてくれたものという。硫黄島が日本に返還された昭和43年(1968)の翌年頃のことだった。東京の新橋で美容室も営んでいた裕福な家庭に育ち、芸能人の娘などとも交流があったその従妹は、容姿が美しくモデルのようなこともやっていた。米軍関係者とも関わりがあって、その伝手(つて)で硫黄島へ行くことができたようだ。そして、親戚がここで亡くなっていると伝え、どのように交渉したのかは分からないが、現地からこれを持ち出すことができた。
 以来、親族は、この島とうがらしを「遺骨のようなもの」として大切にしてきた。また、曾祖父が出征前に残して行った髪の毛が墓の中に入れられているという。
「行くまでにいろいろなことを調べたり聞いたりしました。そして実際に行くことによって最後のピースが埋まったと思います。私が硫黄島に行ったことを、祖父母も伯祖母(祖父の姉)も、すごく喜んでいました。調べたことの裏付けになるような体験ができて、硫黄島がより身近になったと思いました」
(続きは8月4日掲載予定)取材・文/伊豆野 誠

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