連載[第56回]

孫世代の遺族たちのそれぞれの思い

硫黄島に触れた時 連載 第56回
令和8年8月18日

■連載[第56回]
風の音 最終回

●「アズ・イズ」「トゥー・ビー」
 植木さんは2年前に結婚した。相手は、大学を卒業する頃に、友人の紹介で知り合った一つ年下の短大生だった。神奈川県で育ち、現在、保育士として働いている。
 2年前といえば、ちょうど硫黄島へ行き、現在の会社に転職した年でもある。むしろ転職1年目で、たいした仕事は、まだ回ってこないだろうと見越しての渡島への応募だった。
 結婚と同時に家も買った。場所は千葉県の柏市で、そこは東京の勤務先と茨城県の実家や祖父母の家との中間地点にあたる。その引っ越しの時期に訪島がかぶってしまったが、妻は喜んで送り出してくれた。
 植木さんにとって家系を調べるとはどういうことだったのだろうか?
「断片的なことしか知りませんでしたし、これからも調べていこうとは思いますが、これ以上、どれくらい新しい情報が出てくるかどうかです。何かの形でまとめたいとは思いますが、今のところは考えていません」
 父方の植木家のことも調べたいとは思うが、これもどうなるか分からないと言う。だとすると、少なくとも植木さんにとって櫻井家のことを調べたのは、自分のルーツを確かめる、といった行為ではなかったようだ。
 なにせまだ29歳と若いのである。調べたのは、直接的に、子供の時に不思議だと思った光景が、話題の映画によって世界と繋がっていると感じ、その「正体」を確かめるということだったのだろう。そして、それは、可愛がってくれる祖父母と共有してきた、どこか秘密めいたものでもあったのだ。
 植木さんは、たいした「平和教育」は受けていないという。歴史の授業で、戦争時の映像を見て感想を書くといったことはあったが、ことさら課外学習で戦争遺構や資料館などを見に行くということはなかった。高校の修学旅行で沖縄に行き「平和の礎(いしじ)」を回ったことは印象に残っているが、「戦争一般」に対することさらの関心はなかった。
 だからこそ、硫黄島に行った時、他にも20代の人がいて、その同じ世代と話ができたことは興味深かった。当然ながら、渡島の理由も関心の持ち方もそれぞれに違っていた。
「毎年、終戦記念日になると、歳をとられた遺族の方の話が報道されます。もちろんそういうお話を聞くのは重要なことだとは思います。でも、それより下の世代の人の話も聞きたいと思っていました。ましてや、昨今の状況を見ていると、今後、どういうことになっていくのか予想もつきません。そういった場合に、今ある事実ベースを押さえておくことが重要だと思うんです」
 自分の立場、世代での「戦争一般」に関する意識が広がったのだ。
 植木さんにとって、コンサルタントして習い性となっている言葉がある。それは「As-Is(アズ・イズ)」「To-Be(トゥー・ビー)」。「現状」と「理想の状態や将来像」のことをいう。上司によく言われることだが「現状を把握しないと、提案もできない」のだ。
 これを「戦争」や「平和」にあてはめると「現状を知らないと思いも馳せられない」ことになる。自分にとっては曾祖父のことを調べて実際に現地に赴き「戦争」や「平和」が身近になった。それは「戦争論」や「戦術論」といったどこか人間不在のものではなく、先の大戦の中で翻弄された身近な親族の姿であり感情だった。教科書の中の無味乾燥な出来事ではなくなったのだ。
 渡島した年には、転職、結婚というこれからの人生の基盤となる重要なことがあった。今後は家族も作るだろう。硫黄島のことと曾祖父のことは、子供に話して伝えていこうと思う。そして年齢を重ねて、硫黄島に限らず新たな興味が出てきたら、また調べて動きたいと思っている。
 祖父母の写真を胸にして硫黄島に行った2年前、植木さんは、もしかしてと思い、摺鉢山(すりばちやま)の頂上から、LINEで祖父母に電話をしてみた。果たして繋がった。祖父は思いがけないことに驚いていたが喜んだ。風の音などを聞かせることができるかと思い、しばらく通話口を掲げていた。「何か言うことある?」と問うても応答はなく、ただ耳を澄ませているかのようだった。祖父母と共に聞いたその風の音は、これからも植木さんの心の中で響き続けていくだろう。(了)
(次回は11月頃からの掲載予定になります)取材・文/伊豆野 誠

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